新雪の吾妻連峰

福島の青い空

 

 

日本人の食事(1)

 

 

刑務所の食事

 

ホリエモンが2年ぶりに刑務所から出てきたときはびっくりした。ほっそりして体が半分くらいになった感じだった。

 

刑務所の暮らしは実に健康的だという人がいる。特に食生活だそうで、栄養士が計算して適切な食事を考えるのだそうである。

贅沢はできないが、刑務所は贅沢をするところではないから当たり前だ。

 

かくして出所してくる人々はみなホリエモンのように20代のように身が引き締まって、体重もそれなりになっている。

20代の体重になっていたらそれは健康というものだろう。

 

秘密は麦飯らしい。刑務所の食事評論家氏の話によると、健康というと巷間よく言われている玄米ご飯が出てくるが、玄米ご飯は確かに栄養効果は抜群であるが、玄米ご飯の人でホリエモンのように痩せてる人を見たことがないと言っている。

 

やはり30%も大麦を入れた白米ご飯が一番日本人の体に合っていて、2年くらいでホリエモンが出来上がるというんである。

これは説得力がある。

 

刑務所の食事は低たんぱく、低脂肪、高炭水化物食だというんである。そんな食事療法は今まで聞いたことがない。

高炭水化物食とは麦飯のことである。

 

あとおかずはまめ類、海藻類、イモ類が多いのだそうである。これに季節の野菜が付くというのだ。

 

刑務所食事評論家氏の分析では、このことから重要なことを分析している。

 

高炭水化物食と言ってもそれは多分に食物繊維を含むもので、問題はその植物繊維だというのだ。それは大麦の働きのことを言っている。

 

この食物繊維がインスリンの働きを助けて、血糖値をコントロールしてくれ、いわゆる糖尿病を防いでくれているというのだ。見事な分析である。

 

かくして、2年も過ぎると健康なホリエモンができ上げるというわけである。納得いくではないか。厳然として完璧モデルがいる。

ま、そういうわけである。

 

日本人類学の祖

 

話は変わるが、明治のころ、エルヴィン・フォン・ベルツというドイツから来たお雇い外国人学者がいました。東大に30年近く勤めて、近代日本の黎明期に様々な活躍をしました。天皇の主治医やら政府高官の健康診断などを行っている。

 

当時の日本人の高官たちに、日頃の食事のことや、旧来の食事のことなどをいちいち聴取し、データを作って、ドイツで出版している。

 

中には、佐賀の乱で刑死した江藤新平の食事記録も残っている。刑死するずっと前に採録したものである。同じ佐賀藩の大隈重信の食事記録も残っている。

 

江藤は軽い身分の武士だったが、大隈は違って高等官だった。しかし二人とも同じようなものを食っていた。

 

これは司馬遼太郎さんの記録がある。いずれ詳細を記しますが、

その前にベルツの研究は日本人について様々な研究をしていることなんである。体力測定のこと、日本人の食事の特性などを詳細にわたって、論究している貴重な研究である。

 

また話は変わるが、このベルツの研究をドイツ語から翻訳して、さまざまに研究した人がいた。安田徳太郎博士である。

 

安田徳太郎「人間の歴史」

 

ベルツがドイツで出版した記録には、日本人を人類学的に分類した、いわば日本の人類学の曙のころの記録がある。

 

頭蓋骨から見た日本人、さらに長州顔、薩摩顔の特徴をとらえた分析、アイヌの分析、沖縄人の分析など当時の世界的な学者の分析を参考にした貴重な資料も残っている。

 

なんのせいだか日本では翻訳されていない。ただ、安田博士の著書にだけ残っているのである。当時の世界の学者はアイヌについてどのような見方をしていたか、実に面白いデータばかりである。

 

明治時代のデータによる人の直感で判断した素朴な資料であるが、これがまた、結構真実をついているんである。

 

分子生物学によって明らかにされた最新のミトコンドリアDNAデータが、日本人類学の黎明期の学者によって分類されてきたものとほぼ変わらないという結果が出てきてるんである。

ミトコンドリアDNA=女性の骨だけに残るミトコンドリアから抽出されたDNA。現在の人類学のデータはすべて女性のミトコンドリアDNAです。

 

そういう当時のエピソードや最近の医学的な人類学の成果などを見比べてみるというのが今般の目的である。

 

要するに日本人はどこから来たかということである。

 

え!漢字ばかりで真っ黒だって?。そういう文章を読んでもらうのは不本意ですがしょうがないんです。何しろ明治のころからの話ですからね。ひらがなにしたら訳が分からなくなってしまいます。

 

イザベラ・バードの旅「日本奥地紀行」

 

明治11年、イギリスの旅行家・探検家のイザベラ・バードが来日した。

イザベラ・ルーシー・バード( 1831年(天保2年)10月15日 - 1904年(明治37年)10月7日)は、19世紀の大英帝国の探検家、旅行家、紀行作家、写真家 

 

早速、イギリス公使館に問い合わせ、パークス公使に旅行の安全の可否について聞いた。

 

パークスは、外国人女性の一人旅は日本中どこでもオッケーだと言った。明治11年に外国人の一人旅行は大丈夫と確約保証する人がいるなんて、本当だろうか。

 

バードはさっそく日本人のガイドを雇って旅行し、日本の奥地を縦断して北海道まで北上した。散々な苦労をしながらも日本の東北地方を歩いて見聞を本国に送り続けた。

 

それは「日本奥地紀行」という著書になって刊行され、卓抜な旅行記となって、今も日本人を魅了してやまない。そこには明治10年代の日本が余すところなく描かれて、懐かしく、民俗、民情などが女性の眼で細やかに観察されていたからである。

 

 

 

 

当時のイザベラ・バードが通った道が復元されている。

黒沢峠

かつてイザベラバードが歩いた道、現在は廃道で地元の人たちの手で守られている。

旧米沢街道(越後街道)約500年前にできた道。南側には日差しを避けるブナの街路樹がある。こぼれ陽の道だ。

 

 

 

以上、刑務所の食事、ベルツの話、安田徳太郎の話、イザベラ・バードの話などから、日本人の食というものを考察していきます。