福島の青い空

 

 

黒沢峠

 

 

 

 

 

かって、越後から米沢までのいわゆる越後街道には13の峠がありました。先年そのひとつ宇津峠に行ってきました。

今般、ようやく小国町の黒沢峠を訪れることができました。

 

この峠道は明治11年にイザベラ・バードが「日本奥地紀行」であるいた道でもあります。

 

麓の黒沢集落のみなさんがかっての敷石を掘り起こし、当時の越後街道を再現しました。

 

イザベラ・バードがたどった道で、現存して当時の面影を伝えている唯一の道だと思っている。

 

 

“ブナもみじ降り積む道の石畳” a87427   

 

 

登り始めの勾配は結構きつく、イザベラ・バードは牛に乗っていたと思うが、牛も大変だったと思います。

上に行くほど勾配は緩やかになります。

 

ヤフーブログのa87427さんの文章をお借りしました。写真ばっかり見ようとしないで下の文章も読んでください。敷石の道ばっかり撮って何を言いたいのか分かると思います。

 

 

 

・イザベラ・バードの東北紀行「会津・置賜篇」

 

      赤坂憲雄著 平凡社 2014年刊

 

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本書はイザべラ・バードの「完訳 日本奥地紀行」のうちの福島県と山形県の置賜地方(ほぼ米沢市)の部分だけの紀行である。

 

1878年(明治11年)西南戦争が終わった翌年にバードは日本にやってきた。

 

領事館に日本の奥地に女が一人旅することは大丈夫ですか?と問い合わせると、英国公使のパークスは「オーライ」といったかどうかは知らないが、とにかく日本中、どこに行っても安全だと確約したのだからすばらしい。

 

(ふつうならそんなこと言えませんねよネ。)

 

バードは言う

『ヨーロッパの多くの国では、またわが国(英国)でも地方によっては、その土地のものとは違う服装をして1人旅する女性は危険な目にあわずとも、礼を失することをされたり侮辱されたり、金をゆすられたりすることはある。

 

ところが「日本では」そんな失礼な目にあったことがなければ、過剰な料金をとられることもこれまで全くなかった。』

とバードは言っている。

 

また、「完訳日本奥地紀行」のいたるところに、繰り返し醜い顔をした日本人が登場する。

 

バードにとって、ことに日本の男たちの「小柄で、不格好で顔は人が良さそうだがしわくちゃで貧相で、ガニ股で、ネコ背で、胸がへこんだように見える」ことは、まさに国民的な欠陥として認識されていたようだ。

 

しかし、その顔や体つきについては、貧しくみすぼらしいと反復しながら、それらの人々が勤勉そのものであることを見逃してはいない。

 

彼らは苦しみ、激しい労働をしているけれども、まったく独立独歩の人間である。といっている。

 

さらに上陸してすぐに、浮浪者が一人もいないことに気付いたが、その後の旅の中でも、ついに1人の浮浪者にも出会うことがなかった。

 

バードは旅の始まりの頃から、幾度となく、日本人の勤勉さと農村の美しい景観について語っていた。

 

山形の置賜盆地の景観に至ってはアジアのアルカディア(桃源郷)とさえ称賛している。――中略

 

明治以降の、日本の近代化を根底から支えてきたのは、これらの勤勉な人々=日本人だったのではないか。

 

そんな忘れられた日本人の姿が、わずか百年あまりの昔が、いま、静かによみがえる。

 

と著者は解説している。

 

バードが日本人の容貌、貧相なスタイルについて悪口を言っているが実際そうだったんだからしょうがない。

 

戦後の日本人はみんなそういう人ばっかりでした。早い話が栄養失調です。農夫症という病気もあります。当時の農家は消耗が激しく、老化が早かったのです。

 

耕運機などはなかったし、トラクターって何だ、という時代です。”風流の初めやおくの田植え唄“などと詠む人もいましたが実際の農家の人にとっては激務でした。

 

福島では田の草取りの仕事が嫌で、こんな仕事をするくらいなら人間なんでもできると言って上京し、博士になった人が二人いると聞いたことがあります。

 

このことはバードの偏見でなく、戊辰戦争で官軍に従軍した英人医師ウイリアム・ウイリスの日記にも見られます。

 

松平容保が江戸に護送されるのを見送る会津の農民たちの姿を、会津藩の武士たちとは著しく見劣り、背は小さく、体格は貧相で、顔色も悪く、着ているものもみすぼらしく、武士と同じ民族とはとても思われなかったと記しています。


https://blogs.yahoo.co.jp/a87427/27733627.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 団体名:黒沢峠敷石道保存会

 黒沢峠のある越後米沢街道・十三峠は、大永元(1521)年に伊達稙宗(たねむね)が大里峠を開いたことにより始まりました。この黒沢峠は米沢から数えて6番目に位置しています。越後米沢街道の重要性が増すとともに整備され、天保6(1835)年~慶応3(1867)年の間には、悪路で停滞する荷物の解消を図るため、敷石を敷き詰めた道普請が行われました。また、この街道は、イギリスの旅行家イザベラ・バード、良寛、原敬、十返舎一九等の多くの著名人も往来した歴史があり、現在もバードを慕って全国から多くの人々が黒沢峠を訪れています。
 黒沢峠敷石道保存会は、三島通庸による「小国新道」開通により使われなくなった黒沢峠を守ることを目的に、昭和55年に結成されました。土に覆われていた敷石道を5年間かけ掘り起こし、活動を続けてきました。私たちは、先人達が作り、諸先輩たちが蘇らせた敷石道を中心とする歴史や景観を、大切な宝として保全・活用していくことをとおして後世へ引き継いでいきます。