『晩春』・紀子三部作の①  ・ 小津監督作品 ・1949年度 | 吐夢の映画日記と日々の雑感

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懐かしい名画、最近の気になる映画のことを書いています。

好きなのは戦前のフランス映画です。

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   『晩春』

小津作品はいろんな方がブログで書いていらして、わたしも書きたいと思いつつタイミングがなく、

 

温めてはおりましたが、今日は先日の『父ありき』に続いて書いてみます。


   普通は

 

ヒロインが"北鎌倉駅"のホームから線路を渡り、


改札口を出て



マーガレットの花の群れを横に見ながら、お寺への道を歩いて、寺に入り、茶会の待合いに待つ叔母の横に着席...

という流れになるんだけれど、


この作品では、


北鎌倉駅、ホーム、花、寺の屋根、


と、ワンカット、ワンカットで

切り替わって....(待合い)に

観客は誘われる。



小津監督の特徴が画面で展開する。


登場人物の心情や想いを象徴的に暗示したり、予測させたりする。

このカットの繋ぎは、セリフやナレーションの役目を果たしますね。


待合いで叔母のまさと会った

紀子は二言、三言言葉を交わす。



三輪秋子さんという未亡人も同席。

茶席への案内の声、ご亭主のお点前、そして庭の紫蘭



それから、障子に映る揺れる木々の影

から、

ゆっくりと山の木々へ。



木々のそよぎが出たことが時間の経過を表す。



ここまで何分?



見事な導入部です。



何度も見ているのに、

私の見方が幾分変わったことに

気づかされた。



作品は

妻を亡くした大学教授の父親と二人で暮らす娘紀子が父親を一人残しては嫁げないという

理由で拒み続ける結婚をどうやって”うん”と言わせるかのお話である。


ストーリーについては、

いろんなブローガーの方が書かれていますので、

今日はストーリーというよりも、

違ったところから見てみます。


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紀子は戦時中に身体を壊して、医者にかかっている。



栄養もままならないのに、買い出しに行って大きな荷を背負って、過重労働で肺を患った。が、やっとこの頃

血沈も下がり、叔母まさは

紀子をそろそろ嫁にと心配している。



ヒロインの紀子は27歳位か。



ある日、東京に買い物に出て、父の友人で京都の大学の教授をしている

小野寺に出くわした。



彼が再婚したことが紀子にとって

不潔で汚らしいという概念があり

ストレートに小野寺に告げる。

小野寺は笑いながら紀子にいじられるのを喜んでいるかのよう。



これから持ち上がる自分への縁談と

父の再婚話(父のつく嘘であるが)に

大きく関わってくる。



本作品の見どころとして

原さんの、顔の、表情の変化に

重点を置いてみました。


時に夜叉のような、

氷が張り付いたような怖い顔に出くわすんですよね。



最初に登場した明るい紀子は

どんどん暗い顔になり、

怖い表情になり

皮肉っぽく変化していく。

 





父と娘の物語は今でも多く

画面に登場するが、

優しい父親への娘の愛情と

男として、自分のものであるという

線引きギリギリのところが

ドラマになりやすいからだと思う。


紀子も、自分が嫁に行けば父は困るからと

自分に言い訳しつつ、言い聞かせつつ

本当はずーっと父の側にいたい

精神未発達の部分が顔を出すのだ。



最初に登場した三輪秋子未亡人が

父の後添えとして、まさ叔母が

候補に挙げる。

まさが紀子にお父さんの再婚相手に三輪さんどうかしら?と言った途端、顔は引きつり

それからは父が話しかけても、無反応、冷ややかな顔を向ける。



父と見に行ったお能の場面。

ゆっくりと流れていた穏やかな時間。



先に斜め向かいに

三輪未亡人を見つけた紀子。



さらっと会釈を交わしながら、

原さんの紀子は見る見る夜叉の顔。

父の顔を見てうつむき、また三輪夫人を見る。

唇はよがみ、うつむいて悔しい!!と言わんばかりの嫉妬の顔。


そして揺れる木々が映し出され、親娘はとぼとぼと並んで歩く。


しかし、紀子はたまらなくなって用事があるからと、父を置いて先に歩き出すのだった。



首を前に向けたまま、下から顔をねじって見上げる意地悪な顔。そうして

父に対してよそよそしく、拗ねて

しまう紀子。

原さんがこんな表情を幾度も幾度もする作品は多分この 晩春 だけだと

思うのですが。


小津作品らしくない、父に対する危うさをはっきり打ち出しているように思います。

 そしてラストの有名なシーンですが、京都旅行の最期の夜の旅館でのシーンです。


これもいろいろといろんな方たちが論評されていますが、

あの  壺 ですね。

 




電気を消した布団の上で交わす会話。

 

     


”お父さん  わたし 小野寺のおじさまにひどいこと言ってしまって、

素敵なおば様なのに・・・・・”

”いいさ なんとも思ってはいないさ ”と父。


”わたしね お父さんのこと嫌いなったことがあるの・・・・お父さん  ”


すると父はいびきをかいて眠ってしまった。

紀子は天井を見つめ、カメラは障子の前にある壺を映す。

この壺が何を意味するかのいろんなご意見なのですね。


ひとり取り残される父親の象徴としてか、孤独を表すのか・・・

そしてまた暗い中での紀子の顔のショット。

優しい紀子がいました。

もう一度壺のショット。

そして紀子の顔は苦渋に歪んでいました。


わたしが思ったのはあの壺は父の象徴で頑として 嫁に行って幸せになるんだよと言っている?

そして一人取り残される孤独な父親の象徴でもある。

あくる日帰り支度をしながら、いまだ父の元にいたいという紀子に、

小野寺との会話にもあったように ”俺たちだって育ったのをもらったんだから

   育てた娘を嫁にやる輪廻だよ”と話していたように

人生の摂理を優しく話す笠さん。


そして父へのほのかなぎりぎりのところの愛が吹っ切れた・・・

 




娘を新婚旅行に送り出して帰ってきた父はリンゴの皮をむきながらうなだれる。

自分にも何かを言い聞かすように。

そしてまた湘南の海のカットで終わる。



この作品で特に、カットの繋ぎが非常に気になってしまいました。

人々の会話や動きと静物のカットの繋ぎが非常に意味を成していることが今まで見ていたのに、

また違った意味で染みこんできました。


それと付け加えたいのが叔母の杉村春子さんが

寺の境内でがま口を拾った場面。

 



縁起がいいわ  とちゃっかりがま口を懐に笠さんは交番に届けなきゃ  というと

届けるわよ とあっけらかんというが、横をお巡りさんが通ったが渡す気配もなく

シャンシャンと前を急ぎ足で歩いていく。

観客も絶対にあのがま口を懐に入れたままだろうって最初から分かっている。

でもその演技は杉村さんだから できる、似合う演技だったと思って笑えました。



紀子三部作の第一弾。

次の『麦秋』を経て『東京物語』へ続くわけだが、

麦秋まではそれまでの日本の家族の在り方を象徴した親を敬い・・・という形が前面にあったわけだけれど

『東京物語』へきて、近い未来の家族の崩壊というものを暗示して観客に投げかける。


そしてまたカラー作品になってからは以前のような理想の家族を建前として作られていったような気がする。
 

★ちょっと気になったことがありまして。

 

  この場面は父の助手の服部と紀子が自転車で七里ガ浜をサイクリングしているのですが

 

      この標識というか広告というか矢印は平塚ストリートとありますからどこかのカフエの広告かも

 

しれません。でも、映画が作られた1949年にもうコカ・コーラってあったのでしょうか。

 

米人が特別に納入していればさもありなん。

 

私が知る限り、コカ・コーラが日本で販売され始めたのは1960年頃だと記憶してますが違ってる??

 

どなたか知ってらしたら教えてくださいませ。

   

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