笠智衆さん主演の『父ありき』・父の日にちなんで・小津監督、1942年度作品 | 吐夢の映画日記と日々の雑感

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今日から、貯めておいた小津作品を2,3書いてみます。
    
    まずは1942年戦争下に撮られた唯一の作品。『父ありき』

6月16日は父の日、  にちなんで。

    
 

   早速簡単なお話に入ります。

舞台は金沢。

 



  教師堀川(笠智衆)は、妻を亡くして

 

10歳になる息子良平と二人暮らしである。

 

学校行事の修学旅行時、

 

生徒が芦ノ湖で転覆死したことに

 

責任を感じて堀川は辞表を出す。


息子と一緒に長野県に向かった堀川は

 

村役場で働くことになった。

 

     

父の誠実な生き方をとても尊敬している息子良平(津田晴彦)は

中学校へ進み寄宿舎に入る。


良平を大学へ行かせたいと、堀川は単身上京して、もうひと働きと

 

頑張っている。

そうして良平(佐野周二)は仙台の国立大学に進み、その後、

 

秋田の学校で教職についた。

 




父は金沢時代の同僚(坂本武)の娘ふみ(水戸光子)を嫁にもらってはどうかと良平に聞くと

任せると照れて答えた。

 



しかし、数日後の朝、堀川は体調を崩し病院へ運ばれるが

 

あっけなく亡くなってしまった。


良平とふみは秋田の地へと向かうのだった。

 

⭐️

親子の日常を淡々と描いているように見える。



まず、1942年戦争下で撮られた作品ですが、

 

戦争の影は少しも感じられません。

映画が終わって気づいたのは


ラスト秋田へ向かう列車の中の周平の表情からして、

 

今までの話はここ列車の中でずーっと良平が

 

懐古していた話なのか?と思ってしまった私ですが。

 

今、秋田へ向かっているのが1942年だとすれば、良平が子供のころ

つまり10歳くらいの時は1920年、25歳で教師になった時は1935年位の頃を

 

思い出していることになりますね。何の根拠もなくそう思っています。


そして良平のモデルが小津さんで、父親の周平が小津さんのお父様かもしれないとも思いました。

小津さん自身も代用教員を一年くらい経験しているみたいだし。


殆ど親子の、会話と画面に 終始しているこの作品。


1920年、1935年頃は徴兵制度と言っても戦争がまだ始まっていないから

そんなに厳しくないだろうし、戦争の影がなくても不思議ではない。

懐古しているからこそ、父と自分の過ぎ去った時間ばかりを思い出すのだ。

向かい合った父はとにかくいつもしゃべっている、こんなにしゃべる笠さんは珍しい。

子供のころ、父親がしゃべっていると、

 

少しうつむいて背を丸めてしっかり話を聞いてうなづく良平。


釣りに行くと、釣り竿が左から右へと動く、その動きが二人全く一緒。

 



大人になってからの釣りのシーンも同じで左から右へと一緒に半円を描く

 

微笑ましいシーンです。

 

 



大人になってからも父親の前に座って話を聞くその姿は

 

子供の時と全く一緒で

うつむいて背を丸めて少し頷く。

 



ラスト、父周平が息を引き取った時、廊下の窓辺で泣く良平の後姿は

 

子供のころと同じ泣きじゃくり方。


父は息子がいくら大人になってもいつまでもいつまでも大切に思い、

子は子でいくつになっても父親を慕い敬う姿は

礼節を尊ぶその思いに満ち溢れていた。



1942年といえば戦下、小津監督の脳裏に

 

戦争が横切らないはずはない。

 

 

 

だけど、作品には、戦争場面はもとより 

 

通行人としてでも軍人は登場しない。

 

大事な大事な息子、世の親ごさんにとっても

 

同じ思いがあるだろう。

 

修学旅行の折、生徒を失った悲しみを味わった

 

堀川はきっと怖かったであろうと思う。

 

生徒を預かることがこわくなって、

 

教師を辞めた。

 

だからこそ


たった一人の息子を戦地へなど送りたくないという

 

小津監督の思いが、

 

ご自分の過去とオーバーラップして

 

出来上がった堀川周平像ではないかと。

穿った見方ですが、


いくらお国のためとはいえ、たったひとりの息子を

戦地なぞへやるものか、という軍人大嫌いの小津さんの無言の訴えもあったかもしれません。

堀川の生徒だった幾人かが酒宴の席に呼んでくれた時に、

皆に”子供は何人か、一人のものは手を挙げて!二人いるものは!”と

言葉を投げかけるシーンがある。彼らもいずれは徴兵されるだろうという投げかけだろう・

卒業生徒たちの中に、佐分利信さん、日守新一さんのお顔もありました。

親子で行った温泉旅行は塩原温泉のようです。



宣伝映画を撮るために軍からシンガポールへ行かされた時も、

 

小津さんは

カメラなんぞ回さずに、米兵から押収したハリウッド作品を

 

帰るまで見まくっていたという話は有名です。


戦後に創られた『東京物語』や『麦秋』『晩春』に見られるシーンがいくつも見られ、


すでに小津さんの作品の形がここですでに完成していたように思うのですが。

 

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