コーヒーブレイク ・・マレーネ.デートリッヒとジャン.ギャバンの恋 | 吐夢の映画日記と日々の雑感

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コーヒーブレイク 再投稿

こんばんは。
反戦映画が続きましたが
チョット一息入れまして......

消えたブログの再投稿です。

(マレーネ.デートリッヒと
ジャン.ギャバンの恋)


マレーネ.デートリッヒと、ジャン.ギャバンの共演の『狂恋』を投稿する前に。

二人が恋人関係にあったことご存知でしたか?
戦中、戦後と足掛け10年位の間
二人は恋人だったんです。

私の好きだったノンフイクション作家で、鈴木明さんという方がいらして、
二十代の頃『南京大虐殺の幻』という
本で知りました。

『狂恋』のレビューをー書こうと思ったところ、彼がすごいギャバンのファンで
『ジャン.ギャバンと呼ばれた男』を書かれ、私も確か1985年頃に買い求めたのを思い出し、書棚から探し出しました。
所々をピックアップして転載しましたので『狂恋』のレビュー前に是非
読んでくださいませ。

ーーーーーーーーーーーーー以下

1940年のナチ占領下のフランス。
ジャン.ギャバンはパリを離れニースにいた。
そこにゲッペル配下の二人のナチス宣伝省員がやってきた。
『フランス映画界にとって、あなたは大切な人です。フランス映画界の為に、そして、あなた自身のためにも、すぐにパリに戻って、映画制作に加わってください。』
彼らの言葉を拒めば命の保障はない、かと言ってドイツ軍に協力する気は全く無かった。ましてヒトラーの命令など聞く気はない。虫唾が走るほど嫌だった。

選択肢は二つ。
命令に従うか、逃げるか。ー
ギャバンの出した答えは
アメリカに、、ハリウッドに向かうことだった。

マドリード、タンジールを経由し、リスボンからやっと貨物船を見つけてニューヨークに着いたのは1941年の二月だった。降らんな敗戦から八ヶ月経っていた。
日本では、小さな名画座などで、
『望郷』や、『我らの仲間』などが、
まだ上映されており、
若者はそこに遥かな国 フランスの匂いを味わっていたが、
ギャバンがアメリカに逃げ出したことは
日本の新聞には報道されなかったそうだ。その時のアメリカはヨーロッパの激しい戦況など思いも呼ばないほど静かであった。
頑なに英語を覚えることを拒んだギャバンに手を焼いたハリウッドは先にドイツから渡ってきた、フリッツ.ラングの力を借りて何とか一つの作品を完成させたのだそうだ。

さて、そんなギャバンの前に
マレーネ.デートリッヒが姿を現したのが彼がアメリカに着いた直後らしい。ー



デートリッヒはハリウッド歴史始まって以来のインテリ女優であったらしく、
1936年頃には『ハリウッド亡命委員会』なるものを作り、スイスにその出先機関を設置し、エンゲルという秘密地下工作員を派遣していた。
ドイツ人だが、民主主義を信じ、ナチス.ドイツを心底憎んでいた女性である。

ジャン.ルノワール、
ルネ.クレール、
ジュリアン.デヴィヴイエなどフランスからの亡命者で、デートリッヒの世話にならない映画人は一人もいなかった。

さて、
デートリッヒはギャバんに会った瞬間
一目で恋の虜のなったそうな。

このことはギャバンが亡くなってから、
デートリッヒが書いた『自伝』の中で
詳しく告白されたがフランス国民は戦後すぐに知ったそうである。

その自伝はデートリッヒから見たギャバンとの恋である。

ジャン.ルノワールの証言によれば、
『デートリッヒは、すごく、愛国心の強い女性で、ハリウッドのクラブにギャバンを連れて行っても、彼女の方から
🎶ラ.マルセイエーズ🎶を歌い始めたそうだ。ギャバンはマルセイエーズなど歌うのは大嫌いで やめてくれ と言った。

仏頂ズラで、無骨なギャバンのことを
彼女の仕草らしく、指でギャバンの頭をはじき、
『おばかさんね、だからあなたが大好きなのよ!』と。
顔女はギャバンをハリウッド.ボールのクラッシックコンサートや
モーツアルトのオペラを見に連れていたが、ギャバンはデートリッヒの隣でいつも居眠りをしていたそうだ。

彼女は母親のように、愛情と賛美の心をもって、夜も昼も彼の面倒をみた。

ギャバンがハリウッドに着いたその年の12月に、日本は、ハワイの真珠湾に攻撃をかけた。アメリカ国民にあたえたショックは誰もが想像もしえない出来事だった。

それから、結局ギャバンはフランス軍に現役復帰を願いでて、北アフリカ前線へ。

デートリッヒはアフリカ前線への慰問にと、二人の間に打ち合わせがあったとも考えられる。
戦争中も二人は手紙のやり取りはもちろんのこと、密かに会っていたようである。
パリ解放のあと、ふたりは
ノルマンデイの小さな農園にいた。

『モンコルジェ農園』という名前をつけたこの農園は、戦前にギャバンが買ってあった彼の唯一の財産だった。

その農園の近くにドリューという小さな小粋なレストランがあった。

マルセル.カルネと、ジョセフ.コスマがその小さなレストランに二人を訪ねたのは
1945年の八月。

カルネは、一冊の脚本と、一枚の歌の楽譜とを二人のテーブルの上に置いた。
脚本の題名は『夜の門』
楽譜には 🎵枯葉🎵 と書かれていた。

枯葉の作曲者のコスマは、
『大いなる幻影』で音楽を担当していて、ーギャバンとは息が合っていた。
コスマが店にある古いピアノを弾きながら枯葉を歌った。
ギャバンは『もう一度』、『もう一度』と七回もリクエストした。
『終戦』という混乱の中で、この時間は
別天地であるかのように、古き良きフランスをしのばせる、素晴らしく美しい
曲だった。

二人に持ち込まれた作品であり、
美しい曲だったがデートリッヒは断り、ギャバンも従った。
後にイヴ.モンタンで制作されたのはご存知ですね。
しかし、、曲のヒットは映画公開から
五年後のことである。

話が壊れたのでデートリッヒは、
ギャバンのために
『マルタン.ルーマニアック』という作品を映画化の提案をした。
ギャバンはデートリッヒのことを
大した女ーーーという意味の
『Grande』と呼んでいた。

しかしこの中年の男女の恋はそろそろ終わりを迎えようとしていた。
激しい気迫に満ちたデートリッヒは
本来ギャバンの求めた女性ではなかったからだ。ーー『マルタン.ルーマニアック』撮影の打ち上げの日に
珍しくシャンソンを歌うギャバンにデートリッヒは涙を流し、恋も終わりを告げた。

『マルタン.ルーマニアック』は
『狂恋』という邦題で数年後に日本でも公開された。