《処女の泉》 ・イングマル.ベルイマン監督・ スェーデン 1960年度作品 | 吐夢の映画日記と日々の雑感

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≪処女の泉≫、イングマル.ベルイマン監督

こんばんは。

イングマル.ベルイマンはみなさん、ご存知の通り
スエーデンが誇る大監督ですよね。

彼は牧師の子供なのですね。
このことが彼の作品を理解する上で非常に重要なんですね。

牧師の息子なのに、神を汚すような、
神に刃向かうようなむごい映画をたくさん世に送っています.
ここが重要なんですね。

神を冒涜しているように見えて、映画の根底には
神を非常に認めている。

1918年生まれ。
子供の頃から演出家になりたくて、そう言う方面の学校に行き、
学生演劇から、王立オペラ劇場の演出助手を経て、
名演出家になりました。
ストックホルムの舞台と映画の神様みたいな人なんですね。

でも、日本人にはとっても難しいですよね。
わたしは、≪弟七の封印≫と≪野いちご≫と≪処女の泉≫の
三本しか観ていませんが、機会があれば≪沈黙≫をぜひ
観たいと思っています。

この人のものは、一歩引いたところから
哲学、神学として観ないと、
眠くなるかもしれません。

こんなにも人間を冷酷な目でみることが出きるのかという怖さ、

似たような作風の監督にイタリアのF.フエリーニがいますが
この人にはまだ温かさがある.

常に神ありて、人間=我あり という観点から描いているので
わたしには
難しいです。


人間解剖のような厳しい
表現。

ベルイマンの映画はもうのっけから、画面をじっくりみつめて
目を離してはなりません。



   ≪処女の泉≫

真っ暗な場面から、、、
ふー、ふーとなにかを吹いているような音がするかと
思うとメラメラと炎が上がって部屋の中の様子が次第にわかります。
すると汚い台所でいかにもだらしなさそうな女が火を吹いて
パンを焼いている事がわかります。

中世のスエーデンの片田舎。

そしてこの女がなにものであるか、画面は案内していきます。
女はこの家の遠い親戚の娘なんですが
誰かに犯されて妊娠しています。

この炎と女の醜い表情から、炎は人間の心に棲む悪魔を
象徴していたんだという事が観終わってからわかってきます。

この女は親戚なのにまるで下女扱いをされ、この家の
16,7歳の娘を大変に嫌っております。
一人娘で両親から、蝶よ花よと可愛がって育てられ、
特に父親は目にいれてもいたくないほど甘やかせている。


年に1度の神様詣でということで、森の向こうの教会へ
行く日の事です。
娘は寝坊してしまった為に
ひとりで行かねばならなくなった。

付き添いにあの下女を連れていく事に。
お昼の弁当のサンドイッチに
生きたがまガエルを挟むというようなことをして、
ほくそえむような根性も悪い下女である。

父に頼まれたたくさんのローソクを届けに二人は
馬にのって出かけていく。

ところが森の途中で、流れ者の三人に.出遭う。
ひとりは40代。ひとりは30代、もうひとりは15,6歳の
少年である。

飛びっきり気に入った衣装をまとって出掛けてきた娘に
男たちは弁当を一緒に食べようと誘う。
わがままでも世間の垢に染まっていない娘は
何のためらいもなく、一緒に食事をする.


しかし欲望を満たしたい悪人どもの二人の男が彼女を強姦し、
おまけに棍棒で殴り殺し、身ぐるみはいで、逃亡する。
さすがに少年は笑って眺めていたものの
食べたものを吐き出すほどのショックであった。

それを、離れた所から見ていた下女は.。
怖くてなにも出来ないのと、そうなることを願って傍観した
のと両方である。

両親は、
夜になっても帰ってこない娘を心配しながらも、
教会に泊まったのだろうと休む事にしたが、

しかしその夜流れ者たちは、この家が娘の家だと知らずに一夜の
宿を借りに立ち寄った。
快く、食事を与え、居間を提供した主たち.

少年は食事中にも食べたものを戻す始末であるが、
主は気に止めなかった。

主たちが休んでから、居間で少年のうめき声がするので
妻が行って見ると
どうやら折檻しているようであった。

そして、30代の男のほうが、鞄からなにやら取り出し、
これを買ってくれという。これは妹の衣だが高価なものだ。

一目見て娘の衣服だとわかった妻は、主人に相談すると言って
居間のドアのかんぬきを降ろし、寝室へ戻り、主に見せた。

身を清め衣服に身を包み、剣を持って、居間へ向かう主。
まず、親玉の首に一突き、そして若い方を刺し倒して
炎の上に転がした。
逃げ様とする子供は入り口にいた妻のふところへ、飛び込むが
主は引きずり抱きかかえ、妻の止めるのも聴かずに、
壁めがけて投げつけた。

娘が死んだのは、下女は
自分のせいだと言い、妻は
主に悋気を焼いた自分のせいだという。

娘を探しに行こうと、奉公人や下男、下女たちと森へ向かう。

泥にまみれた娘に取りすがって泣く主が娘の頭を抱えあげた時
その下から水が泉のように涌き出てきて小川となって
線を描いた。

主は天に向かって言う。”娘が何をしたというのです。
神のお考えになる事が自分には理解できません。
あああーわたしは娘の霊を供養する為にこの地に
明日から、わたしは自分の手で教会を建てます。”

きれいなきれいな泉はこんこんと涌き出るのでした。

最初は炎のシーン(悪魔を連想させ)から始まって、
神を象徴するきれいな 水 のシーンで結んでいます。

おとぎばなしのような話ですが、
意味が深いのですよね。

いろんな人間の残酷な姿が見えて、
神というものに凡人より近いところに位置するベルイマンが
こういう怖い映画を作ったところに意味があるのです。
ベルイマンの人間分析ではなく、解剖という怖さが迫ってきます。

ベルイマン監督は
黒澤監督を崇拝されていたとか!
すると、この作品、
どこか、《羅生門》を
思わせる=似ている?
だれが、真実を述べているのか........。

1960年度のカンヌ映画祭特別賞受賞作品です。

1961年度の
キネマ旬報ベストテン
第一位。