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「原全三郎」本名は原善三郎。大正15612日神奈川県橘樹郡鶴見町市場132番地(現在の横浜市鶴見区尻手二丁目8番付近。市場小学校の北側にあたる)で出生。父信吾、母シンの九人目の子供で、末っ子の三男として生まれる。

原家の系譜には幕末から明治に活躍した偉人、原善三郎がいる。また、母方の系譜には神川町町長(昭和591226日~平成41225日)を歴任した竹内忠良がいる。

平成元年320日、竹内忠良が町長に在任中、神川町誌が作られたが、町史ではなく町誌とした理由は解らない。

神川町誌には、原家の先祖は永享十二年(1440年・室町時代)信州から移り住んで、渡瀬村の草分け百姓になったと書かれている。


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  菩提寺は、埼玉県児玉郡神川町大字渡瀬273番地「戒蔵寺」。

原ヘルス工業に原善三郎の逸話が残されている。温浴器を考案したのは、鳥取県・三朝温泉で養生していたときだという。早稲田大学在学中に学徒出陣、一命を取り留めて帰国後、這うようにたどり着いた湯で、「酸素がこんなに美味しいものか」と気が付いて研究を重ね完成にこぎ着けたという。後に原善三郎が一世を風靡した「バブルスター温浴器」の誕生にまつわる逸話である。


一世を風靡した原ヘルス工業「バブルスター」が崩壊すると、「美と健康」は一体であるという信念から、エステサロンの経営と化粧品、健康食品、美容機器の販売を行うザマイラ(当時はクリスティーネ・シュラメク・ジャパン)を設立。日本で初めてハーバルグリーンケア・トリートメントによる美顔エステを採用し、全国に独自のエステサロンを展開した。同時に、原善三郎は特許出願、商標出願、意匠出願と、ネットワークビジネスのカリスマだけではない一面を持っていた。
2008101日原善三郎香港で急逝。血中から睡眠導入剤が検出された。

地産霊園
関越道を鶴ヶ島インターで下りて、飯能・寄居線を走ると「地産霊園」に出会う。霊園は小高い丘になっていて、見晴らしの良い一際大きな場所には原善三郎の墓所がある。その神聖な墓所にに除草剤を撒いて 草木を枯らしてしまう事件が起きた。その時の除草剤が強すぎて、原善三郎の大切にしていた羅漢槇が立ち枯れている。現在の羅漢槇は二代目である。
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   「墓 誌」
原家は遠く戦国時代川中島合戦において 上杉謙信の大太刀より武田信玄の一命を救いたる幕挌にして 勇将の名 燦たる原大隈守を祖先源流として後年武州(埼玉県)児玉郡若泉村字渡瀬に移り 旧家名主挌となり今日を得る 特に近年においてその家系を世に現したるは 当墓碑建立者と同名なる直系の祖原善三郎にして幕末より明治にかけ横浜開港の先駆者として且つ明治国家の財政収入の基盤なりし生糸貿易において 機智と商才と進取的な行動力により「横浜は善きも悪しきも亀善の腹一つにて事きまるなり」(亀善とは原の商号亀屋善三郎の略称)と威勢をうたわれ第二国立銀行設立頭取 本邦取引所の濫觴金穀相場会所を設立頭取(天下の糸平「田中平八」をドル相場にて一躍盛名を博せしむる)神奈川県会議員また福沢諭吉とともに横浜商法会議所を創立し頭取市制施行につれ最初の市会議長 市参事会員および埼玉県選出衆議院議員 貴族院議員 横浜商業会議所が開始されるや初代会頭となり名実ともに横浜の一大財閥第一人者として勲四等瑞宝章をおくられ また福地桜痴の「東京日日」新聞(現毎日新聞)改組事業に参画 のちに横浜の東南部元本牧海岸に沿い「三渓園」(重要文化財指定各種)の築庭によりその偉業を残した

 当建立者 原善三郎は祖先の家門 名誉をけがすことなくその責を感じ譜代の業を茲にとどめ

  岳父 原新吾 誓行院釈道新順居士 

      昭和二十一年十二月二十六日

                行年六十六才

  慈母 原志ん 誓願院明鏡妙眞大姉 

昭和四十年十月二十九日   

                行年八十二才

 の霊を安置し先祖の冥福を祈り墓所を建立するものとす

              
                 昭和四十九年九月吉日

                      建 立 者 原 善 三 郎


天潤院善修三徳居士 享年八十三


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