【悟り】完全に決着しないと、すでにブッダの悟りの事実そのものの日常で生活している事実は判らぬ | 【ブッダの真の悟り、解脱を体現したい方のための専門指導】 世間にはびこる偽物の悟り、覚者達から離れ、自己の真相を体現したい方の場

どんな観念、

思い込みがあろうが、

誰一人例外なく、

ブッダの悟りの事実そのものの日常で

生活しています。

 

 

 

 

 

 

ブッダの悟りは、

言葉で理解するものでも、

考え、概念でわかるとか、

わからないとかいうものではなく、

知ることでもなく、

信じることでも、

信仰することでもありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「世界と自分が分離していて、

この心身が私であり、私が存在している」

 

 

 

 

この思い込みこそ

人間の最大の思い込みです。

 

 

 

 

 

 

 

そんな思い込みがある中でも、

誰一人例外なく

禅の今しかない在り様で、

真の禅、ブッダの悟りの事実そのものの在り様で、

すでに如来そのもの、本来の面目そのもの、

もうすでに無我無心そのもので、

 

 

 

 

 

分離対象なく、

何気ない日常生活の全てが

禅そのもの、

仏法そのものとして、

すでに日常生活に事実があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、

すでに今、まわりの環境やモノと一つだ、

すでに今、聞こえているモノ全てと一つだと、

すでに今、視界に広がる世界の全てが

果てしなく一つになっていると、

そのように頭を働かせて、

そのように観ようと、聞こうと

思おうとするものではありません。

 

 

 

 

 

その時点における体験は、

事実の体験をした自分がまだ残ってしまっていて、

分ってしまった自分が残ってしまっており、

それは、

ブッダの真の悟り、

解脱ではありません。

 

 

 

 

 

 

誰かの言葉や話している事を掴んで、

そのように

観ようとか、聞こうとか、

何か創意工夫して

認識以前の事実にこちらから向かって在ろうとし、

実践しようと作為している奴こそが、

仏道における消滅すべき

実体のない考え上の架空の自己です。

 

 

 

 

 

 

その実体のない

考え上の架空の自己が完全に消え去り、

認識が完全に死に切る、

意の認識が完全に一度停止して止む。

 

 

 

 

 

 

そのような、

ブッダの

真の解脱の体現に与り、

完全に決着がつかないと、

消滅すべき自己が完全に落ち切らないと、

 

 

 

 

 

 

今の事実の様子である、

すでに今、色即是空であり、

すべては有りながら実体が無い。

すべては実体が無いながら有る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのことは、

考え上のブッダの真の解脱の

概念的理解として掴んだ概念的事実ではなく、

 

 

 

 

ブッダの真の坐禅の実践にて、

認識が完全に死に切る解脱の体現に与らないと、

最後まで一度逝ってしまわないと、

 

 

 

いっさい頭で理解することではない、

ブッダの悟り、解脱そのものの中で、

本来の面目そのもので

日常生活をすでに送っているという

悟りの事実は、

頭で納得して理解出来ている範疇のものでは、

完全に決着しハッキリして、

大安心、大安楽、満足、自由そのものを体現し得ません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日常生活と

ブッダの真の坐禅の実践をしている時は、

何の変りもありません。

 

 

 

 

なにかの坐禅状態を

作るものではありません。

 

 

 

 

 

ですから、

日常生活の時と何ら変わらないですが、

だからといって、

静中の禅にて万事を休息せずに

坐禅の実践をせずにブッダの解脱の体現に与るだなんて、

虫が良すぎますし、

完全にハッキリして決着がつくことはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのまま

このままにただ在る

ブッダの真の如来禅そのものが正しく、

 

 

 

「仏法」

 

 

 

そのものであり、

 

 

 

仏教や禅、悟りの概念など、

観念知識は一切必要ないのです。

 

 

 

中村 幸ム