『神の手』と呼ばれる医師が医療ミスで訴訟をおこされた。私は決してミスぐらいあるだろうから遺族に許せとは言えない。しかし、福島医師がすばらしい医師であり、福島医師にしか助けられない患者がいることも確かである。

私は、最近『法律』というものに疑問を感じている。『法律』は弱者を守るものである、簡単な話、申し合わせのようなものだ。弱肉強食の対極。それが悪いとは思わない。資本主義だ、共産主義だ、の議論にも法律はある程度前提として入ってくる。

かつて、奴隷のように扱われていた人間達が勝ち取った『法律』は、いつの間にか金をむしりとるツールになってしまっていることも事実である。

今の小学生達が『体罰』という法律を盾に教師に反抗したりもするようだ。それに訴訟を恐れ、難しい手術を行わずたらい回しにされたり、医師の技術も上がらないなどの弊害がある。

法律は、なんの為にあるのか。振りかざしても、すり抜けてもいけないものだと思う。

陪審員で殺人犯を裁くより、こういった問題に一般人の感覚が必要なのではないだろうか?

■手術ミス、「神の手」医師に1億円損賠求め提訴
(読売新聞 - 04月14日 07:46)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1569335&media_id=20
自分は自分のことを好いてくれる人が好き。または、究極的に嘘が上手く、嫌いな素振りを微塵も見せない方に好意を持って接する、とてもわかりやすい人間です。

つまり、『やる気があるんです!』とか『一緒にやりたいです!』とか言われたら、よっしゃいっちょやってみるか!ってなります。来るもの拒まずってやつです。


1つの持論として、
『1つのことを好きになれるのも才能。そのために努力できるのも才能。』

だから、やる気があるのは大事なんですよ。

もう1つの持論、
『天賦の才には、一般人は努力しても決して埋まることのない溝がある。』

人が生まれ持ったというか、環境が特化させた才能はやっぱり付け焼き刃で努力してもダメだってこと。



スポーツの世界には教本というものがある。バットのスイングの仕方やボールの蹴り方が書いてあるのだが、たまにそれを読んでスポーツを始める、または技術アップを図る輩がいるが無断である。

それは成功している人間が行き着く合理性であって目指すところではない。勝手に行くのだ。

人間は歩くプロだ。しかし、誰も歩く方法は丁寧に考えない。むしろ、考えると意識してしまう。だから、夢と理想だけを教本から学べばいい。

逆に教えるには、自分の方法だけではダメだ。何万通りのうち1つを当てる気概が欲しい。それだけ、感覚を扱うものは難しい。
4月のテレビの番組改正で、ついに、ついに、とうとうテレビで『演劇』が見れなくなりました。芸術劇場とミッドナイトステージ舘のどっちもなくなるとは…
わかります。わかりますよ?見ないですもん。普通の人は。

芸術は、事業仕分けで仕分けられるぐらい経済的な価値はないかもしれません。それは芸術に責任があるのか。ないとはいいません。芸術は、もっと国民に歩み寄る必要があると思うからです。

芸術って、社会とかけ離れた部分にある気がするんです。ふらっと、映画にでも行くかとはなるけど、美術館や劇場とはいかない。この違いはあると思う。

日本という国に伝統とか芸術って根付いているのだろうか。


私はたまに恐ろしくなるんです。相撲や歌舞伎があと30年してお客さんが入るのかと。年を取ったからと言って観るものではないと思います。きっかけがあって、面白いと感じる、また行きたいと思う。

そこにステータスが生まれるんです。

教育がなにかを歪めている気がします。芸術や勉強はもっと自由なものであり、本人の興味のもとで楽しいもののはずなのに、自己表現は嫌われている。


この豊かと言われる大量消費社会は、芸術の火種すら消費してしまうのだろうか。