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常に夢を持って波に乗ろう!

明日29日は中秋の名月ですが、

敢てここでは、別ネタに迫ります。

この記事は、クスッと笑えるようにも

また、考え過ぎて寝られないようにも

拵えられております。

その点をご了承の上、

読み進めてください。(吟)

 

 

 

 

 

都電や市電、それに辻のあちこちに建っている石碑にお目にかかるご仁も多いと存ずるが、お墓ではないようだ。

庚申塔や庚申塚と書いてあるから、、、

が、今では、えっ、それって何?といわれる現代でもある。

そも庚申とは何ぞや?

 

 

干支の「かのえさる」の時の戒めと供養で、もとは道教からきている。これは中国や台湾の昔からの伝統思想で、一時映画で「キョンシー」とか「ゾンビ」などオカルトが流行ったので一部が知られているが、かなり歴史が古い。

 

庚申信仰について調べてみると、

 

平安時代の陰陽師よりも前、慶雲2(704)年文武天皇の頃、遣唐使が帰国して間もなく中国より持ち帰った思想、信仰が平安貴族の間で流行り始めた。

 

『人間の体内には三尸(さんし)と呼ぶものがいて庚申(かのえさる)の日の夜・・・・・・。(後述)

 

平安初期に伝わり、貴族社会にあっては「守庚申(もりこうしん)」といって詩歌や楽曲によって雅な夜を徹したが、室町時代になると一般民衆の中にも広がり、酒宴で一夜を明かすようになる。そしてこうした集まりを「庚申待供養結衆」といった。

 

さらに江戸時代になると、とりわけ農村部にも広がりを見せるようになって地縁関係による人びとで「講」が結成されるようになった。これを「庚申講」というが、金を出し合って像塔を造立して供養のしるしとする流行を生むようになった』(学生社発行「東京史蹟ガイド⑳」~)

 

とある。平安初期から江戸時代までだと千年はある。そんなに脈々と続いている信仰とは?一体どのようなものか調査してみたくなった。

 

 

 

庚申の日の夜は、ハロウィンと同じくらい特別な日である。

この世には、ゼウスのような天帝がおって、全人類の査定評価を60日に一度の日程で行っていた。

警察庁長官と司法長官と神を兼ねておったようなもんかな。

 

 

先ずこの文言から、。。、、、

 

人間の体内には「三尸(さんし)」という目には見えない虫がいて、それが夜中、人間が寝ると体内から出てきてふわっと天帝に呼び集められるようにして昇天し、その宿主の善悪所業を逐一天帝に報告され、やがて信賞必罰が下る。

 

三尸「天帝様、ご報告申し上げます。先ずこの者について、いい知らせと悪い知らせがありますが、どちらから先にお聴きになりたいですか」

天帝「どちらからでもおんなじじゃが、いい方から先に聞いた方が心証がよかろうな」

三尸「では申し上げます。この者は吾々のこの仕事を世間に喧伝してくれております。然も好意的に」

天帝「ほう、で、悪い方はなんじゃ」

三尸「吾々の企業秘密を暴露しております」

天帝「ん?おんなじじゃないのか?温故知新につとめれば、人類も成長でき神性に近づけよう」

 

天帝は三尸の担当を美人の三尸に替えてなおもその人間を見守った。

しかし、世の中にはこんな善人ばかりではない。それだったら庚申講というものが成り立たない。そもそも庚申待ちというのは、神ではない弱い人間だから人の悪口を言って責任転嫁したり僻みや嫉み、また私利私欲の疚しい気持ちも起きるのだろう。そこを穴埋めしてくれるのが講や信仰であったり近所づきあいであったり井戸端会議であったりSNSであったりするのではないのだろうか。

 

それは、半分恫喝と自戒を伴った神経をすり減らすほどストイックな僧侶的呪縛の想念であった。今でいう受験地獄に近いのかもしれない。

それがあるとき陽転して酒宴で一夜を呑み明かす庚申講になった。とは、どう考えたらいいものか……。

近代で言うと明治維新から西洋化し、鹿鳴館があって文明開化の波に乗って戦争があって、近年バブルがあって「ジュリアナ」でお立ち台ブームがあって、スマホ、昨今では東京オリパラ・お台場景気、地価高騰、四年ぶりイベントやお祭り復活……のようなものなのかな。

そこには抑圧されたストレス発散とか自己表現、自己実現など言いようのない人間関係社会の歪み調整のような作用が存在したのではないだろうか。

人間心理として自分は馬鹿だと思われたくないし、できればポイントも貯めたい、また知らず知らずに悪いことをしているかもしれない。痛くもない腹をさぐられたくはないし、天帝に罰を与えられもっと不細工な三尸を付けられてしまってはかなわない。

しかし、三尸は見えないんだろう。なら美人でも不細工でも構わないんじゃないのか。

いや、香りとか雰囲気、空気が違う。

 

しかし千年も続いた信仰とはそれだけでない何かがあるはずだ……。  

 

そこは一般的人間の考えそうなこと……そうだ、三尸を天帝に報告に行かせなければいい。そのためには、寝て不覚を取らなければいいんだ。

うん、それに、もしうっかり寝てしまっても、すぐ起きれば出ている三尸を中に戻せば済む。マスクしてねればいい。etc。

こうやって次々に可愛い人間の悪だくみが連なっていった。もう引き返せない、勧善懲悪の天帝はこわいし、天罰もいやだ、なら寝ないでおこう。という発想はそういうところから来ているのではなかろうか。

 

こういう平面思考的発想は平安時代当時の百人一首かるた(「カルタ」はポルトガル語のカード、独語のカルテなどから当時の中国に伝わる)で、字を習ってないうちは絵の「坊主めくり」をして、善悪を瞬時に判断する勘に頼る習癖に由来するのではなかろうか。

つまり深くじっくり考えようとしない単なる思い付きで。たとえば0か1の二進法、或いは丁半博打とか人の人相、印象だけで善悪を決めるように、そういう平安時代の無学な盲点を突いた勘に頼る神話信仰だったのではなかろうか。

ゆえに今日は石碑に庚申とあるがその由来を知っている者は少なくなってきているという現状もある。

しかし千年も続いた信仰とはそれだけでない何かがあるはずだ……。 

 

 

庚申の日の夜、人びとは徹夜で身を清潔に保ちながら体内の三尸(さんし)に昇天の機会を与えないようにするのが「庚申待ち」(申待ち)となった。はて、待ちながら何をしようかと……。

 

「上記の身を清潔に保ちながら」というのは、禊、沐浴とか信心深いいい子に見せたいという発心。誰に?報告者の三尸に。それは天帝(神)の使いだからである。

それこそヌミノーゼ(畏怖と魅惑)なのである。三尸はチクリ虫なので畏怖感もあり、また誰も見たことがない神秘の生き物だと伝わっている。

人間には矛盾するこの精神が宿っているのである。いわゆる恐いもの見たさである。

それは皆さんすでにご体験済みのことで申し上げれば、クリスマス・イブの夜、そっとサンタを待った経験はないだろうか。

サンタとサンシは名前は似ているが三尸は誰も見たことがないという。ならば一体どんなものか見たくなるのが人情ではないだろうか。

かと言ってジッと待っていれば眠たくなって三尸が天帝に言いつけに行ってしまう。

人間無くて七癖というが、「待ち」時間に何をするか。スマホかな、、、

本を読む。認知症予防にブログ道の勉強をする。書く。いやいや楽しくバカ騒ぎする。Etc.等々……どうでもいいが当時の人はこういう事をして待っていたらしい。

 

徹夜で勉強して科挙(採用試験)に合格しようとか、商人なら接待やら宴会などで庚申待ちして景気回復をはかろうと、ちくりの三尸を体内から出さないよう、またどんな三尸だか見てやろうとか躍起になるだろうが、石碑を造立するというのは関東人は酔った勢いなのか、三尸を見たのか、形になる何か記念碑的杭を大地に打ち込みたかったのだろう。あちこちで見かける。しかもそれが現代でも何の名残か分からずともちゃんと残存しているという事実はリスペクト(尊敬)に値する。

 

どうして当時それほど流行ったのか、現代からでは推し測ることもできないが、当時は瓦版ぐらいでマスメディアの発達も今ほどではなかったが、人間、流行には乗り遅れたくないものという見栄も手伝ってか噂が噂を呼んで日本全国に庚申待ち、庚申講が広まったというインパルス(衝撃電流)が津々浦々まで及んだことぐらいはウィキの写真集からなどでも推測できる。

ひょっとしたら今の現代にも秘かに大衆の間に潜行して信仰されているかも知れない。

中国の道教から平安時代初期の日本へ入り神道,仏教とも合流して江戸時代まで千年も伝わりのちにはご本尊さまが大日如来や阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王などと色々に変化し広がっていった。

ということは日中韓神仏合作の庶民信仰であったのか。そこには体で覚えた習慣に流されるある意味弱い民衆庶民の息吹、いやそれだけではないな。きっと楽しい息抜きパワーがあって想像もできない愉悦のエネルギーが合体して塑像や貼り絵パッチワークのようにそれぞれの理想、思いを代弁してもらいたく記念碑的庚申塔として各地に石刻造立されていったのではなかろうか。それでないと全国的に千年も続くと云うことはとても理解しがたい。

 

 

が、時は流れ今や往還の片隅に忘れられたように、また後の祭りのように「庚申」の石碑が時代の名残を伝えている。

それら証から民俗文化の歴史を読み解くのは、なんというか臆せず然も慎重に庭の飛び石をぴょんと渡るようにしてようやく祖先の玄関や式台に辿りつく感じで懐かしさの想像を胸いっぱい膨らまして門をくぐるしかない。 

 

また祭りには待つという秘かな意味も込められています。往年のATG映画「祭りの準備」という当時の話題作もありました。それは”祭り”とは一定の時や神を待つという人間の理性に照らし合わせた業(カルマ)を映画化した逸品でした。

 

庚申待ちとは、庚申の日,昼夜寝なければ三尸は滅んで精神が安定し長生できると記してあることから三尸とはどうやら疳の虫とか悪さの虫のような煙たがられる疼きに似たチクリ虫、管理社会の監視虫ではないかと思われます。

言葉を言い換えれば、聖なるものへの畏怖でしょうか。美なるもの聖なるものには貧しくともヌミノーゼ(畏怖と魅惑)の力が宿っており迷いがありませんが、浄化されていない者はたじろぐのです。

 

しかしなぜ庚申(かのえさる)なのか?

それは一つに方角から来た説もありますし、1年に数回ある庚申の縁日も丁度庭石みたいに離合集散の都合がよかったということもあります。

方角説では江戸時代、鬼門、裏鬼門の方角など俗信が流行していました。風水でしょうか。当時は江戸城の北東から鬼が入ってくる鬼門とされ、対の裏鬼門には増上寺など先祖の将軍を祀り守護神として崇められました。

 

それらが重なって江戸時代にも所謂庚申待ち(講)が興隆したのはこういう口実もあったようです。

それとこれは故事に由来したものでしょうが、この庚申を踏襲したと思われる漢字が現代でも使われています。

それは申請、申告の申、なぜ申なのか? 庚申に因んで申し送りされたとも考えられます。根拠は庚申待ちと同じようにお役所や裁判所は申告して一晩、いや場合によってはそれ以上に三尸の出入りがありお伺いを立てなければ調整と称して事が運ばないようでもあります。

 

そして、「神」という字も示すヘンに申というつくりを宛がっています。

尚、庚申は60日に一度訪れる。今年2023年は10月29日(日)。

 

これを読んで今夜眠れなくなった方は、この私の以前のブログでも読み直して戴ければ、三尸も浄化されて熟睡できます。しかしそんなの読んでも科挙に合格するかどうかは本人次第。

 

それより三尸と仲良くなればそんな心配は無用ではないのか。三尸をまるごと取り込めば何の心配も無かろう。清濁併せ呑むじゃ。そうすりゃ夜も怖くないどころか庚申待ち夢二の宵待ちで三尸相手に眠るのも寂しさを紛らわせて愉しそうじゃ。美人の三尸なら尚更のこと。 

 

 ……ちょっと待て、おい、これって買収とか接待を受けるようにとられかねないんじゃないか?

 

 

 

 おほん、言葉を改める--  どこからも誤解や不平不満を生じさせないように公私混同に努めなければ……。

 

いや、もとい、公私混同を絶滅させねば、国家の乱れを招く。(笑)~吟~