”俺がブログを書く理由” | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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この地球は今大きく変わろうとしている。自国主義からコロナ禍を経て、調和・融和へとイノベーション(変革)し、人生100年時代へ向けて脱炭素の環境優先へとベクトル(地球的エネルギー動向)が動いた。
常に夢を持って波に乗ろう!

アメブロさんの「リブログ」とは、面白いことを考えるひともいるものである。日記や備忘録、フィルムだとコピーし焼き直すことになるのだろうが、こうしてあらためて読み直してみると、小説などの本と同じように、人間の考え方にそう違いはない事が分かってくる。

これも遣い方によっては、大化の改新ならぬ文化の更新にもなると我ながら感心した次第。

 

 

上掲の記事、これは3年前の私の考え方なのだろう。

だれしも学校や職場で学業や職務に精進しているうちに、ベクトル(方向性)を見失いがちになることがある。スポーツだってそうだ、いつの間にか目標を見失って迷う事がある。

 

何が正で何が悪か?

疲れていたりすると、つい利益誘導に陥ってコンプライアンス重視(法令遵守)を怠り、安直な考え方に迎合したりする。そして泥沼や蟻地獄にもがき続けなければならなくなる。

 

そうした時にリジリエンス(復元力)のある筋力が人間性を試される。

人間力とも置き換えていい。

それは、法以外のなにものにも束縛、呪縛されず、個性的に展び開びと人生を楽しむ。

芸術、文学、スポーツ、健康学の研究、男と女のこと、動物のこと、人間研究、etc……

 

好きな事にはとことんノビシロが拡がる。

まして国内法では表現の自由が認められている。

放送法とか公序良俗、パブリシティ権等の規定はあるが、基本的に思想やアイデアは自由である。かといってお下劣な表現は本人の品位を貶めるだけである。

 

そこへいくと時代小説には、恋人・夫婦の人情の機微、心遣いが、実にリアリティーとして描きこまれているだけに、読み手はそこに理想の立体像を浮かび上がらせ、本と一体化し作中人物と共に一喜一憂してしまうのである。

 

 

特に滝口康彦の「拝領妻始末」は映画化もされた名作である。

思うに映画は固定化されるが、本のイマジネーションは永遠に不滅ではないだろうか。

 

同じく近年、映画化された山田洋二・時代劇映画3部作の原作本「たそがれ清兵衛」藤沢周平などは何度読み返しても感動する現代の聖書と言ってもいい。

 

しかしこれは人生の甘いも酸いも噛み分けた恋と務めの経験者でなければ深い理解は及ばないだろうが、識っておけばいつかは解る筈。

そうすれば、自分がこの世に生まれてきた意味や価値、使命を理解できるはず。

つまり、筆者にとってブログ執筆は、呼吸と同じ生理的で、然も文化的生産活動にほかならない。藤沢周平さんも教育的使命をおっていたように、後進の模範やお手本となって恩返しすることで重い荷を少しおろせるのである。

 

           (吟)

 

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