○○の秋~DISCOVER JAPAN~④ | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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この地球は今大きく変わろうとしている。自国主義からコロナ禍を経て、調和・融和へとイノベーション(変革)し、人生100年時代へ向けて脱炭素の環境優先へとベクトル(地球的エネルギー動向)が動いた。
常に夢を持って波に乗ろう!

 

はて、これは何でしょう? 水戸市の千波湖に浮かんでいました。つがい、カップルのようです。

 

 

これは・・・・・・、  カモではないかも。

 

 

カモ科のコクチョウですね。鴨というと新選組の親分、芹沢鴨も水戸でしたか。

 

 

 ここ千波湖の湖水は東に桜川として流れ、やがて那珂川に合流します。政党政治みたいですね。

 

ここで一句。

 「名月や あゝ名月や 無常に 流るゝ川に 月は動ぜず」 ・・・・・・(風の吟) 

 

 ここでクイズ。さて次の写真は何でしょう?弘道館にありました。

 

 

これは「湯殿」とありました。確かに床は湯水が流れるように傾斜していますが・・・・・・。

 

 

そしてD51蒸気機関車(通称デコイチ)

 

 

機関士席  

 

 

しゅっぱぁつ しんこー

 

 

その千波湖から北にJRを跨いだところに梅でお馴染み、日本三大名園の一角、偕楽園があります。そこに至るまで、その土地の神社に先ずごあいさつお詣り。

 

常盤神社から偕楽園東門が近いのですが、お神楽に関するご当地の信仰、考え方が出ているように思えましたので載せます。

 

 

これを読んではて?と考え込んでしまいました。

 

「天照大神が天の岩戸に隠れたので、八百万の神が集ひ、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が奉納神楽を神懸かり的に舞うた。踊るごとに周囲からやんやの喝采を受け場が和み、天照大神が何事かとそっと岩戸を細目に開けたとき、強力無双の手力男の御命が岩戸に双手をかけ、それっとばかり岩戸を押し開け、また日が照り元の天下泰平の世になった」

 

・・・・・・世が乱れたら神楽を舞えばいいのか。 それに天照大神は岩に隠れるのに天下無双の手力男並みの力があったのか。たぶん神様だから神懸かり的なこともいとも容易くできたのでしょう。

 

また他の地方では神楽を舞う代わりに、これは中国の故事から来たのであろうが、鶏を鳴かせて開かせた。とか鳥居はなぜ鳥居というのか?では神のお使いの鳥がとまって居た神聖な場所(神域)とされているから鳥居とか。諸説紛々。地域色があるからこそ旅は楽しい。

さて、清々しい空気が漂う参道左側に並ぶ自販機の拭き掃除をしていた茶店の美しい娘さんに道を尋ねれば、「おみくじ」にある通り親切にも地図をくださった。忝い。さっそくその通り偕楽園に入って行く。

 

 

時代劇風の風格のある門をくぐってさらに進むと、

 

 

「好文亭」が出てきました。コーブン?何でしょう分詞構文ではなさそうだし。

正しくは好文というのは梅の別名「好文木」に由来する。「学問に親しめば梅が咲いたが、怠れば咲かなかった」。という中国の故事から来ている。これは現代にもあてはまると思う。晴耕雨読で勤勉なればいい伴侶を得て立身出世も可、生涯学習を怠れば華の咲かない人生で終わる。梅に鶯か。

それとはまた別に勉学の神、湯島天神の白梅も泉鏡花の「婦系図」も、さらに学問の神様・菅原道真の天神様と梅に纏わる逸話など今の世にも現存する。信ずる者は報われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三階の楽壽楼から千波湖を眺む

 

 

 

 

<偕楽園の沿革>

 天保4年(1833)、徳川斉昭が藩内を巡った際、南に千波湖や緑が岡を臨み、筑波山や大洗の海を遠望できる高台(七面山)を藩内随一の景勝地として遊園を設けることを決め、自ら造園構想を練りました。天保12年から造園工事を行い、翌13年(1842)7月に開園。偕楽園の名称は『孟子』の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり」という一節から採ったものです。

 

 

<特徴>

 偕楽園は「偕楽園記」に「是れ余(斉昭)が衆と楽しみを同じくするなり」とある通り、藩主や藩士のみならず庶民にも広く開放する目的を掲げて造園された江戸時代の近代的庭園。

 また地勢や周囲の自然を生かしたつくりは「風景簡素にして雄渾を究める」「様式斬新にして空前也」と林学の専門家・本多静六博士も絶賛、とある。こうしてみると緑や松は確かに色がいい。

 

 

左の方に好文亭が見える。地方の城下町によってはお城の天守閣がシンボル、誇りとなっているところもあるようだが、ここ水戸藩の水戸城には守るべき城も天守閣もない。その代りに県民、国民皆が堅苦しくなく寛げるよう、梅の名園・偕楽園に二層三階建ての好文亭が地域の自然と一体となって春夏秋冬・四季を愛でる憩の場となっているようだ。

 

それも其の筈、烈公斉昭の造園設立趣旨は「一張一弛」

 藩政改革に力を注いだ斉昭は、優れた人材の育成を目指して天保12年(1841)に弘道館を、よく13年(1842)には偕楽園を開きます。

 偕楽園創設の由来を記した「偕楽園記」に「一張一弛」とあります。「一張一弛」とは「礼記(らいき)」にある孔子の言葉で厳しいだけでなく時には弛(ゆる)めて楽しませることも大事であるという教えです。文武修行の場である弘道館に対し、偕楽園は修行の余暇に趣味など芸を楽しめとの当時の自然を愛でる娯楽施設として開園しました。

 

 

 

ここ偕楽園は春には梅、秋は萩が。

ところで何故、偕楽園及び水戸は梅なのか?

偕楽園、好文亭でいただいたパンフレットなどを参考に私見を述べますと、

「<梅を愛した斉昭>

 古来梅は学問と相性がよく、また実用的でもあったことから、九代藩主・斉昭烈公は、弘道館と偕楽園に多くの梅を植えた由来を種梅記碑(弘道館公園内)に刻んでいます。

 梅は春の魁(さきがけ)として清らかな花を咲かせ、またその実は梅干しにしていざという時の飢饉や籠城、軍旅の携帯口糧、お握りの具として体調管理に欠かせない食物繊維でした。

これらの実用性も重んじた斉昭はこよなく梅を愛し、領内に広く植樹することを奨めました」・・・・・・とさ。

 

ひと頃の運動会でお弁当は手づくりの卵焼きや海苔で巻いたお握りで、その中身には赤い梅がガリッと。それが定番だったように思いますが、あの酸っぱいクエン酸が身も心も引き締めてくれるのですね。

(風の吟)

 

(編集後記)

4000字を越えると字数制限になって更新できず、前回の「○○の秋~DISCOVER JAPAN~③」(弘道館篇)とやむなく分割せざるを得なくて一気に読み抜けなかったのではないかと心残りです。

本当は一張一弛で緊張から一気に緩和へと落差を楽しんでいただきたかったのですが今の世にあってはそれも難しいこと。 やがてアメブロさんもスマホも容量や機能が増すことでしょう。

斉昭公もこんな苛立たしさを当時感じていたのかも知れません。お陰様でそれとなく共感できました。

皆さまには拙文「○○の秋~DISCOVER JAPAN~」最後までご覧いただきありがとうございました。