今日は昨日の続きで、気になった記事について意見したいと思います。

 

気になった記事とはこちらです下矢印

 

 

 

記事を書かれたのは、テロリズム・戦争・宗教問題とコミュニティなどを専門分野とする、真鍋厚さんですが、その専門であれば、もっと違った視点からの専門性を生かした記事を書けたのではないかと思いました。

 

真鍋さんの今回の記事は、クマを捕殺することに反対する人たちの思考などについて書かれたものです。

 

記事には、クマの捕殺に抗議する人たちの行動を「現地の人々の実態をまったく考慮していない独りよがりな主張、単なる無知といえばそうかもしれません。しかし、なぜ、このような極端な反発が噴き上がるのでしょうか」と書かれています。

 

そして、あるコメントに注目しそこから捕殺反対する人びとについて語っています。

 

あるコメントとは、「みんな野生の生き物って、癒やしてるわけじゃない。クマは怖い汚い恐ろしいというイメージを植え付けられている。悪者じゃないよ、そう思わない?」というものです。

 

このコメントの「クマは怖い汚い恐ろしいとうイメージを植え付けられている。悪者じゃないよ」はまったくその通りだと思いました。

 

しかし、真鍋さんいわく、「極端な反発の背景にある『理想化された自然』観であり、自然と人間の関係の単純化なのです」とのことです。

 

まず、感覚的な生き物を捕殺することにたいして、反対するのは極端でも無知でも独りよがりな主張でもありません。

 

記事の最後の方には、「『かわいそう』『殺すな』という『癒しとしての自然』というファンタジーに乗っかった大合唱が生じるのです」とまとめられています。

 

捕殺に反対する人びとは、それぞれに理由があり反対しているのであって、「理想化された自然観」を見ているのでもなく、ファンタジーの世界から意見しているのではありません。

 

たとえば、自然環境保護の観点から反対する人もいれば、動物の権利の観点から反対する人、倫理的判断、良心から反対する人など、反対する理由はいろいろあると思います。

 

「かわいそう」は時に感情的だと言わることもありますが、わたしたち人間と連続する他の種に対してそのように感じるのは当然のことで、思いやりの心です。「かわいそう」と感じることは決して悪いことではありません。

 

真鍋さんは、兵庫県立大学自然・環境科学研究所教授の横山真弓さんの主張を取り上げ、

 

「横山は、昭和初期から第二次世界大戦にかけて日本の野生動物が絶滅寸前に陥っていたこと、戦後は一転して保護政策が始まったこと、個体数が増加する中で農山村から産業が撤退し、生息地が拡大したことなどを解説し、『自然を破壊する人間』と『住む場所を追われる野生動物』というわたしたちが思い描きがちな神話を否定したのです」と言っています。

 

しかし、横山さんの見るタイムスケールが自然環境とそこに棲む動物たちについて考える際にあまり適していないのでは、と思います。

 

なぜなら、自然環境と野生動物については、人間の活動が活発化する以前(近代以前)から考える方がその流れを把握しやすいと思うからです。

 

たしかに戦後、日本では野生動物の数が著しく減少した時代がありました。しかし、その以前はどうでしょうか?人間活動の影響を大きく受けていないであろう時代では、野生動物たちの数は多かったのではないでしょうか(シカについては1970年代頃の事象だけ見てシカについて語る研究者が多くいます。大事なのはそれ以前を知ることではないでしょうか)。

 

一時期に数が減少した動物たちが現在にかけてその個体数を回復させてきていることと、農山村から産業が撤退したことで、野生動物の生息地が拡大したということは、必ずしもそうとは言い切れないと思います。

 

理由は、実際に野生動物の生息地(山や森林など)は毎日人間によって破壊・汚染されており、生息地は減少しているからです。そして、野生動物の生息地の拡大は、人間活動が大きく影響しているため、生息地が拡大しているかのように見えることがあります。実際には、人間活動の影響により新天地に移動を余儀なくされる動物たちが多く存在します。

 

真鍋さんが言う「『自然を破壊する人間』と『住む場所を追われる野生動物』というわたしたちが思い描きがちな神話」は、神話ではなく、事実です。

 

さらに「とりわけ近代化以降、もはや『手付かずの自然』はどこにもなく、地域ごとの生態系のバランスを保つために人が介入しなければならなくなっています」と言っています。


しかし、手付かずの自然は、近代化以前にはすでになく、その状態で近年まで生態系はバランスを取っているのです。もちろん、生態系は現在もそのバランスを取ろうとしています。

 

記事には、自然の保護管理は必須と書かれており、「『自然な』野山が幻想に過ぎないのと同じく、『自然な』捕食関係も幻想に過ぎないからです。けれども、まるでエデンの園のような『理想化された自然』観が世間に浸透しています」と理由が述べられています。

 

「自然」の定義は研究者によっても、個々の人たちにとっても違うと思います。そのため、「自然な野山が幻想にすぎない」とまとめているとことがよくないと思いました。「自然な捕食関係も幻想に過ぎない」というのは、どういう意味なのは不明ですが、種間の捕食関係は実際にあることで、それはそれぞれの種間の関係によって違います。

 

「理想化された自然」については、それを目指しているのは生態系関係の専門家の方たちですよね。理想化された自然にするため、野生動物の個体数管理や「外来種」の「駆除」を政府や行政も積極的に行なっていますよね。

 

真鍋さんは最後にこのようにまとめています。

 

「自然と人間の二項対立ではなく、相互浸透が不可避な状況とどう付き合っていくかという道しかないのです。

 

それは、一部の地域で始まっている捕食を前提とした狩猟ツーリズムに象徴される「害獣」カテゴリーを超える価値の創出といった「妥協点」を模索し続けるということです。野生動物との多様な関係性を地道に編み直すというリアリズムこそが不可欠になっているのです」。

 

自然と人間の二項対立ではなく~、と語りつつ「妥協点」を模索するということですが、自然環境に対してなんと上から目線なのかと思いました。なぜなら、自然環境は尊重すべきものだからです。

 

クマの捕殺に反対する人たちの中には現実を把握している人もおり、なおかつ感覚的存在であるクマに共感し、非致死的方法での共存を願っているのです。

 

「人間に『害』があるから殺せ」という考えでは、日本の自然環境も多様な生物たちも守ることはできませんし、まして次世代に残すことは出来ません。

 

弱い立場におかれている者たちに思いやりを向け、擁護する人々を「極端」と表現しているのは、その分野や人間の行動の動機などの理解がたりないように思いました


クマの捕殺に反対する人たちは、現状の問題を提起していることから、他の国でのクマとヒト双方の安全を考えた取り組みを参考に、日本でも環境教育や野生の動物たちへの理解を深める教育を行ってほしいと願っています。

 

長文にもかかわらず、最後まで読んで下さりありがとうございましたショボーン

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