SNSには、困っている野生動物と遭遇した人が「動物を助けてあげたいがどどうすればいい?」と助けを求める投稿が度々流れます。

 

行政に連絡しても野生動物の場合「無視」(=放置)するように言われるだけだと投稿者は語っています。

 

困っている動物と発見者をよそに外野は「野生の世界の話だし、農家の鳥獣被害を考えれば放置すべきではないでしょうか」や「農業被害があるのに鳥獣の救護を美談にするな」など発言しており、なんと無責任で無慈悲な言葉なのかとおどろいています。

 

行政の対応もしかりですが、「農業被害」や「野生の動物」を理由に「救護すべきではない」と結論付けられることの理解に苦しみます。

 

しかし、このような考えは結論ありきで語られている場合が多くあります。

 

「~すべき」とは、「行なうのがよい」「行なう義務がある」ということで、困っている者がいても「助けるべきではない」と言っているのであり、そこに「農業被害」など加わることで、助けない理由付けをしています。最初から「野生動物は助けるべきではない」との結論があるのですが、そこにもっともそうな理由付けがされているのです。

 

困っている者を「助けるべきではない」という結論の社会的反応を考慮して「農業被害」を持ちだしているのなら、人間の負の側面の一部でもあり、人間の思考の問題をも考え込む言葉です。

 

人間以外の動物種による「被害」に対して、他の動物種を殺してしまえという考えは非常に偏りある過激な考え方ではないでしょうか。

 

地球で生きる人類のことも、他の種への理解も、自然環境への理解もなく、地球に生きる種を鑑みることない人間中心なものの見方である、他の種の「駆除」や「放置」の活動にわたしは反対します。

 

野生動物の迫害を続けたり、野生動物の生息地への侵入を続けたりして野生動物への介入を大々的に認めている社会で(困っている)野生動物は「放置」とは特にありえないことだ思います。

 

人間の身勝手は、他の種を多大に苦しめ、地球の健康をもむしばんでいるというのに、日本はご都合主義どっぷりで、自然環境やそこに棲む動物たちへの責任を考えることもなく、人間は今日も気ままに生きています。

★野生動物の個体数管理について、「野生動物の個体数の調節は人間の責任として行なわなければならない」との主張がありますが、「責任」を理由として言っているだけで本質的、真な「責任」ではないのでご注意ください。そもそも自然環境を人間がコントロールする発想が傲慢であり、本質的な問題です。

 

他の種の放置や大虐殺に「被害」を持ち出し、無責任で冷酷な活動を正当化するのはやめよう。農家の生活を考えるのであれば、行政や政府に農家支援の要望を行なおう。農家の生活を守るのは政治の仕事です。

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