午前中から活動に必要な書類作りや資料作りで忙しくしていました。

 

昼食時にニュースを見ると、奈良公園の鹿の遺伝子が周囲に生息する鹿と異なる遺伝子型を持っていることがわかったという記事がありました。

 

このニュースを知り、「やっぱりそうだよね」と思いました。

 

奈良公園の鹿は奈良県の山で暮らす鹿と体型も顔の特徴も行動など異なっています。

 

NHKの「“神の使い” 奈良公園のシカ 周辺のシカと異なる独自の遺伝子」の記事には、奈良公園の鹿は、「1000年以上にわたり独自の集団として生き残ってきたと考えられ」研究者らは「人間が『神の使い』として保護してきた結果ではないか」と述べていることが書かれています。

 

その他に人間が鹿をいかに大事にしてきたようなことが書かれていますが、この記事を読んだ感想は、記事はなんとでもかけるのだというものでした。

 

記事に書かれているように奈良の鹿は一時、頭数は著しく減少しています。

 

奈良の鹿愛護会のHPには、1873年

「鹿園(木柵)が建設され、700頭以上の鹿を収容する。11月、餌不足などで多くの鹿が死に38頭まで減少。のちに鹿を解放して、絶滅を免れる」

と書かれています。

 

東城義則 「動物群の頭数増減をめぐる環境史戦時期奈良公園におけるシカを事例」には、

 

「アジア・太平洋戦争の戦時期に入ると、シカの頭数は減少する。報告者の整理によると、昭和 16(1941)年には 806頭であったのが、昭和 18(1943)年には 350頭、昭和 20(1945)年には 79頭まで減少した」

 

「例えば戦後、奈良の鹿愛護会に勤めた矢川敏雄は『昭和十六年以降は、明治初年と同様、

鹿の保護策は事実上放置され、更に、密殺の続出で頭数は激減していった』(竹下・矢川

1971:606)と述べている」

と書かれています。

 

その後、人間は奈良公園の鹿の「保護」に力を注ぎましたが、これが鹿の「保護」に当たるか疑問があります。

 

資源としての鹿の個体数回復を意図したものでれば、鹿たちのための「保護」とは言えないのではないでしょうか。

 

「保護」した結果として、奈良公園の見えない鎖で繋がれた鹿たちは存続できているかもしれませんが、奈良公園の鹿たちが置かれている状況を見ると「資源」として「保護」されており、個々の鹿たちを大事に想い鹿とかかわっている人間は少数のように思います。

 

人間は鹿を「神の使い(神鹿)」として鹿とかかわる時代がありましたが、その他の時代では、鹿は「害獣」、食糧など神鹿とはほど遠い扱いを受けたり、殺しはしないが「資源」として利用されたりしています。

 

人間の都合いいように奈良公園の鹿たちは使われ搾取されているのがわかります。このことは、奈良公園の鹿だけではなく、全国の鹿にも言えることではないでしょうか。

 

どうやって鹿とつきあっていくかを考えるのであれば、鹿を資源として扱うことではなく、個々の鹿たちの暮らしをよりよいものになるよう、鹿のための「保護」を行うべきだと思います。

 

奈良公園の鹿に限らず、この社会では、多くの動物たちが人間の都合で利用されています。

 

他の国では、動物たちとのかかわりをその視点から考察されており、人間中心の考えではなく、動物の立場に立った動物の生活環境改善の取り組みが行われています。動物たちを守るための法律を作る国が増えてきており、他の国に比べると日本は人間以外の動物への認識が大幅に遅れていることがよくわかります。

 

日本も動物たちも個々の存在そのままで生きることができるよう、動物たちへの扱いに対して「おかしいんじゃない」と思うことがあったら声を上げていこう。

 

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