鳥取県で先日、体重が200キロを超えるイノシシの「捕獲」(捕殺)の報道がありました。
人間は体格の大きな野生動物を「捕獲」してはよろこび大騒ぎしています。
人間のこの心理について、専門家ではないのでわたしにはわかりませんが、わたし自身、生きている者を「捕獲」してよろこぶ気持ちになれません。
大きなイノシシを罠で捕まえ殺したことがニュースで話題になっていたため、この行為にたいして社会の倫理感を問わなければいけないと思っていました。
しかし、数日前に捕殺されたこの大きなイノシシの体を食べようと注文が殺到しているというニュース記事を見ました。
感情と感覚、知性や共感、文化を持ち備える動物たちへの「捕獲」行為の倫理感を問う以前に、捕殺された大きなイノシシの体を食べようと各地の店から注文が殺到している現状に大変おどろいています。
記事に人間によって捕殺された大きなイノシシを「山の主」と書いており、その山の主を食べるという理解に苦しむことが起こっています。食べた者は「たぎりというかみなぎりが自分の中に流れ込んでくる、そんな印象さえ持ちます」と語っています。
記事を全文読むと、血生くさい内容に気分が悪くなります。
「山の主」という表現は、その者を少なからず神聖視しているとわたしは理解しているのですが、みなさんはどうでしょうか?
その者の体を食べて「たぎり・みなぎりが自分に流れ込んでくる」というのは、昔言われていた(今も言われているかもしれませんが)「自分よりも力など優れている者の体を食べると自分もその者のように強くなる」という迷信そのものではないかと思いました。
上記のことから、人間の中の矛盾や他者への認識に一抹の不安をおぼえます。
この記事からわかるのは、現在人には想像力が欠けているということです。
捕殺された者がどのようにして生きてきたのか、何を経験してきたのか、何を感じ、誰と生きてきたのかなど、あなたは考えたことはありますか?
産まれてくることは、多くの動物種や個々の動物はひとりでは生きていないということです。
個人は生活環境下で家族や仲間、友達などの他者とかかわり、その中でさまざまな経験をします。
経験を通じて個々の動物たちは、独自の感情に生きているのです。
野生で生活をする者は、さまざまな環境要因の中、変化する過酷な生活環境下で自分や仲間が備え持っている能力を駆使して生き抜いています。
その生き方は非常に深もいので、わたしたち人間と共通していることが多くあります。
もちろん、イノシシたちも愛情や共感、知性など多くの能力を持ち備えています。
その彼らの存在や生涯にたいして最大限の想像力を働かせてみませんか?
想像力を発揮して、彼らの生き方に共感してみましょう。
彼らは人間に殺されたり、食べられたりするために産まれ生きているのではありません。
人間と同じで自分の生涯を生きるために彼らは存在しているのです。
人間以外の動物たちの存在を軽視するのではなく、わたしたちは彼らと同じ動物であることを理解して、彼らの存在と生き方を尊重し共に生きましょう。
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