暑さと他の要因が重なり、心身共に絶不調なわたしです。

 

犬と鹿たちは変わらずご機嫌さんですごしています。

 

先日の精神科の診察で医師から「SNSを見ないように」「ネガティブな情報に触れないように」と言われていましたが、実践できず、よりネガティブな状態になっていました。

 

しかし昨日、翻訳家で著述家の井上太一さんがメールと届けてくれたことで、動物たちの「生の声」を届けることの大事さとともに、その活動を頑張っていこう!と気力が回復したわたしです。

 

井上さんのHPで紹介されている、メラニー・ジョイ著 玉木麻子訳『私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか』の書評を井上さんが書かれそうです。この本は、「アニマルライツ的な観点から納得できる本」ということで嬉しく感じます。わたしはこの本をまだ読んでいませんが、近いうちに読もうと思っています。

 

『私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか』の井上さんの書評の全文はこちらです。下矢印

当たり前の肉食を問い直す

 

倫理

 

「採食者に『どうして採食なの?』と聞く人はいても、肉食者に『どうして肉食なの?』と聞く人はいない。私たちにとって畜産物を食べることは『当たり前』の習慣だからである。

 

しかし今、そんな当たり前が問い直されている。情報化を背景に、食用とされる動物たちの悲惨な生涯や、畜産に伴う環境負荷などが知られだしたからである。加えて一切の畜産物を拒む『ビーガニズム』という実践も広まり、肉食の意義はいよいよ疑わしくなった。出版界では動物倫理の本がここ数年で急増し、動物利用の是非を論じる学問的素地が整った。

 

本書は肉食という当たり前が、社会的につくられた信念のシステム、つまりイデオロギーであることを暴き、それをカーニズム(肉食主義)と名付ける。

 

わたしたちは社会になじむ中で、特定の動物を食べるように条件付けられる。人は本来。動物への共感を持つもので、食べるためであっても動物を苦しめ殺すことに抵抗を覚えるが、今日の社会では動物利用の実態が隠され。肉食は当然の食習慣として根を下ろしている。

 

これはゆがんだあり方だが、そのゆがみが垣間見えた時ですら、私たちは社会的に刷り込まれた信念を通し、肉食の正当化に努める。カーニズムの不合理を見抜くには、自らがその外に出て真実と対峙し、動物を食べる選択が当たり前でないことに気付かなければならないと著者はつづる。

 

肉食を問うにとどまらず、その習慣を支えるイデオロギーの仕組みにメスを入れる本書は、食と動物の扱いを巡る今日の議論に新たな層を付け加える。私たちは、社会の教えによって絶えず現状維持へと誘導されがちな自身の思考そのものと向き合うことを余儀なくされるだろう。これは著者も述べる通り、食だけでなく、より広い既成の秩序を批判的に見つめ直すうえでも重要な視点となるに違いない。利権集団の操り人形とならないために必読の一冊である」。

 

(井上太一・翻訳家)

 

 

井上さんの書評に書かれているように、わたしたちの思考は社会が形成していきます。

 

その社会の枠を作っているのは一部の人間であり、その枠を埋めるのはわたしたち多くの一般の人たちです。

 

わたしたちは知らず知らずのうちに、形作られた枠の中で生き、そこから出たり、出ようとしたりすると枠の中の人たちからおかしな目で見られます。

 

その構造のおかしさに気付くことができれば、見る世界は広がると思います。

 

この世界、社会にはおかしなことが本当にとても多くあります。

 

全てのおかしいに気付かなくても、1つの「おかしいよね」から少しずつ世界を広げていくことができるので、「普通」になっていることにたいして批判的思考を発揮してみてはどうでしょうか。

 

夏の暑い時間帯は、涼しい場所で読書をするといいかもしれませんね。

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