今朝、犬のおともだちのはっちゃんの心臓の鼓動が止まったと友人から連絡があった。
はっちゃんは、悪性心膜中皮腫という癌と闘っていた。
はっちゃんの寿命に限りあることを知っていたが、実際にはっちゃんが亡くなったと知っても実感がない。
はっちゃんは最後息を引きとるときは、大好きな同居人の友人の胸の中だったという。
はっちゃんは天真爛漫で他者を気遣うやさしい心の持ち主だ。
闘病生活になっても、いつも前向きで痛い治療にも協力的で自ら治療を受けると言っていた。
はっちゃんは闘病中、とてもがんばったし立派だった。
わたしは死後の世界などは信じていないので、生きている間が全てだと考えている。
そのため、はっちゃんによろこびを感じてもらいたいと、はっちゃんのお見舞いに何度か行った。
しかし、もう一度行きたかったとう思いは叶わなかった。
はっちゃんが生きている間に少しでも楽しい経験をと思い、わたしにできることはしたかった。
はっちゃんの最期を綴った、友人の記事はこちら「大好きなはっちゃん、永遠に」
犬たちはわたしたち人間と同じように痛みや苦しみ、よろこびなどを感じる。
そして、自分の意思を持つ。
もちろん、鹿や他の動物たちもである。
その個々の存在の死は全てが同じく扱われるのは当然だが、鹿など「害獣」とレッテルを貼られている動物種は、死んでも「害獣」扱いなのだ。
これには大変おどろいた。
尊い個々の命をゴミのように扱い、一般的な火葬をしてもらえない鹿やその他の動物たちがいることを知ってほしい。
「命は大切にしよう!」とおとなは言うが、言動不一致であることが実際は行われている。
命を大切にするなら「駆除」と言い殺すのではなく、「殺さない」選択をしているだろう。
多くの人は犬や猫などの死は悲しむが、鹿や牛、鶏、魚や他の動物種の死はなぜ悲しまないのだろうか。
共に暮らしていることも関係あると思うが、身近で共に暮らしていなくても、生きている者とする存在は同じだ。
個々の存在にはひとつの命とひとつの心(感情)がある。
個々の存在は唯一無二の存在であり、その重大さに気づくことはわたしたち人間に必要ではないかと思う。
人間至上主義が強い社会で、種を問わず個々の存在を大事にする精神は、この先の社会のあり方に希望を与えるだろう……。
はっちゃんが亡くなったことから、個々の命の大事さを改めて思った。
はっちゃんという存在は、友人たちやわたし、はっちゃんを知る人たちの心の中(記憶)にあり続ける。
記憶は薄れゆくものだが、大事に思う者の記憶は脳の機能が衰えるまであり続けるだろうと思う。
はっちゃん、本当によくがんばったね。
とても悲しいけど、わたしもはっちゃんのように前向きに生きていきたいと思っています。
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