昼から、本棚などの整理をしてため込んだ資料や書類などを整理し、不要な物を処分する作業をしていた。

 

すると、そこに鹿のすぐるちゃん(♂5歳)が顔に血をつけてやってきた。

 

すぐるちゃん、どうやら庭の地面に顔を擦りつけておしゃれをしていたようだ。

 

その時に袋角が傷つき出血したようだった。

 

すぐるちゃんの顔についた血を洗浄綿で拭き取り、すぐるちゃんに「角、痛いね。血は止まっているみたやからよかった」と話をしていた。

 

少しして、すぐるちゃんは角の傷を気にしなくなり、わたしの作業を手伝ってくれていた。

 

手伝うと言っても、片付けを手伝うのではなく、すぐるちゃんの手伝うは「これ何?」「これいらないやつ?」「ちょっと、それ匂いさせて」などである(笑)。

 

すぐるちゃんが、わたしの作業に興味深々なことで、なぜかわたしの作業がはかどるので、わたしは「すぐるちゃんのお手伝いと」と言っている。

 

ところで、日本では野生動物の救護活動がほとんど行われていない。

 

その理由に「野生動物だから」や「『害獣』だから」、「『外来種だから』」などがある。

 

しかし、野生動物であっても、虐待や他の人為的なことで負傷した野生動物は絶対的に救護対象にすべきだ。

 

鹿の傷が虐待で負った傷の可能性が極めて高い場合でも、鹿を救護することなく、鹿を死なせるのが今のこの社会だ。

 

上記の理由で野生動物を救護しないのは、道徳的行為に反する。

 

野生動物については、政府や行政が積極的に保護すべきだが、今の政府や行政は野生動物の殺害に多額の市税を使用している。

 

鳥獣による農作物等の「被害」があるため、その対策と称し、「被害」を出す鳥獣の殺害政策が行われているが、これは、大きな癒着構造で行われている。

 

この癒着構造は、鳥獣による「被害」をうまく利用し、癒着している一部の人間とそれに群がる人間の利益を生みだしているのだ。

そこに、野生動物に苦しみを与えない道徳観や倫理観はいっさいない。

 

政府や行政が「特定の野生動物は助けない」と発信しているので、当然、市民の間にもその認識が拡散される。

 

政府や行政の政策で、生き場を無くし、生活に困窮している野生動物たちを「助けない」ということはなんと酷い仕打ちかと思う。

 

野生動物たちは自分たち(野生動物)より圧倒的な力を持つ人間から酷い扱いを受け、命を奪われ「骨まで利用する」と人間に搾取されているのである。

 

言語を使用しない動物たちは、人間から好き勝手なことを言われ、人間の都合よく利用されて、搾取されている。

 

この現状から動物たちの苦しみがいかに大きく痛みが激しいか容易に知ることができるだろう。

 

われわれ人間は、なぜ、困っている者を助けることをしないのか?

 

われわれ人間は、なぜ、弱者に酷い扱いをするのか?

 

われわれ人間は、なぜ、弱い者いじめが好きなのか?

 

困っている、負傷している野生動物を人間都合で救護しないのは、わたしたち人間の存在を問う問題である。

 

わたしたち人間は、他の動物種にみない残虐性を持ち、それは簡単に増大する。

 

残虐性を持つわたしたちは教育により、変わることができる。

 

残虐性を育てる教育ではなく、他者への思いやりや優しさ、他者への配慮、他者を尊重する教育などが必要だ。

 

この地球で生きるに、他者を苦しめない傷つけないことは第一の原則として自分で意識することが大事だ。

 

今のおとなたちが考える勝手な考えで、多くの野生動物たちが人間の活動で非常に苦しみ、多くの者たちが人間に命を奪われている。

 

これから先を生きる者たちには、今のおとなと違った価値観で物事を見極める目を育ててほしいと思っている。

 

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