山里も汗ばむ陽気になってきた。

 

とはいえ、犬たちの散歩の時は、厚手の長袖パーカーを羽織っている。

 

犬の春ちゃん(♂11歳)。

暑いのでマットの上ではなく床で一休み。

 

タオルを口に咥えシガシガしながら寝そうな鹿ののぞみちゃん(推定4歳)。

 

最近、ご機嫌さんな鹿のすぐるちゃん(♂5歳)。

わたしの服を脚の下に敷いて一休み。

 

同居人Kが昨日、「今年初めてのバンビを見た!むっちゃかわいかった」と少し興奮気味でわたしに話してくれた。

 

産まれたての子鹿が一生懸命に母親の後を追って歩いていたという。

 

健気な子鹿の行動に心があたたかくなるが胸がざわつく。

 

どの動物種もそうだが、産まれたことにより、必ず苦痛を経験することになる。

 

まして、「害獣」とレッテルを貼られ、毎日、無数に殺害されている鹿たちの生涯は壮絶な苦痛を伴うことになる。

 

個々の鹿たちが、人間からの迫害を免れたとしても、子どもや母親、兄妹、仲間が殺されると、大事に思う家族や仲間の死に酷く嘆き、孤独、悲しみなどで苦しむ。

 

感情・感覚を持ち具える鹿たちにたいして、わたしたちはとんでもなく酷いことを行っているという自覚を持たなくてはならない。

 

わたしたちが鹿や猪たちに行っている行為は、ジェノサイドである。

 

野生動物の大量虐殺は「ジェノサイド」には当てはまらないと言われることもあるが、人間と他の動物種の種が異なるだけで、行っていることは同じである。

 

人間と他の動物種、種は異なるものの、人間と他の種、動物として共通している。

 

人間は他の動物種と区別したがるが、現在、わたしたちが鹿やその他の生物に行っている行為は過去、人間にたいして行っていたことであり(現在も行われることがある)、わたしたちは酷い残酷な歴史を繰り返しているということだ。

 

野生動物たちが人間から迫害を受けず、個々の動物たちが独自の生を生きる権利がそれぞれの種、個々の動物たちにはある(産まれてきたということは個々が独自の生を歩むということだ。独自の生をわたしたちは脅かしてはいけない)。

 

人間は他の動物種の生命や生涯を奪ってよいなどという、道徳はわたしはないと思っている。

 

わたしたちも自分として自由に生きることを喜びに感じるよう、他の動物種たちも、自分として生きることを利益とするだろう。

 

鹿や他の野生動物種たちは、人間からの迫害だけでなく、人間活動による生息地の損失、食糧難で苦しんでいる。

 

食糧を得る場は毎日減少し、体と精神を休める安心できる場や子育てをする場も失われ続けている。

 

そして、地球温暖化による気候危機の影響で、熱波や喉の渇き、大量の寄生虫などにも苦しむ。

 

すでに、苦境に直面している鹿やその他の野生動物をわたしたちは、今以上に苦しめるのか?

 

わたしたちは、このことを熟考しなくてはならない。

 

人間以外の産まれてきた者が人間の行為により苦しみを経験し、命を奪われることにわたしはいつも胸が押し潰されそうになる。

 

人間以外の動物種に人間がかかわることで、個々の動物たちが計り知れない苦痛を経験している現実から言えることは、人間は残酷性際立つ動物種であるということだ。

 

他に類をみない人類という動物種は、今後、どのような歴史を歩んでいくのだろうか。

 

日本の事象を見ていると絶望的になるが、世界的に見ると、自然環境意識や他の種との平和共存に向けた取り組みの向上などがあり、ヴィーガン人口も増えているので、世界を見て前向きでいたい。

 

今日は少し気分が沈んでいるので暗い話になってしまった(よくあることだけど・汗)。

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