昨晩、犬をいじめず「人道的」な接し方を提唱している犬のしつけ教室のグループのブログ記事を見ていた。

 

すると、そのグループメンバーの1人が犬に猟をさせており、死亡した♂シカの死体画像が、小さなケージに入れられた犬の様子とともに張り付けられていた。

 

そして記事には、猟は犬がノーリードで山を走り回れるのでとてもよい、ようなことが書かれてあり、その後に殺害した「鹿をおいしくいただきます」と書かれていた。

 

殺害されたオス鹿は角が4本に枝分かれしており、厳しい自然環境の中、少なくとも4年間がんばって生き抜いてきた鹿だ。

 

過酷な自然界で4年を生き抜いてきた鹿。

 

殺害されなければこれからも鹿として自分として、独自の生をいきることができただろう。

 

野生動物を犬を使い追い立てさせ、野生動物に多大な恐怖を与え殺害する行為は、なんとも非人道的である。

 

犬にたいして「人道的」と掲げているグループであるが、犬に猟をさせることは犬にとって「人道的」と言えるだろうか?

 

猟により犬は興奮し、脳内に快感物質であるドーパミンが放出される。ドーパミンは脳内麻薬と言われ、この快感が癖になる。

 

脳を興奮させる脳内物質が優勢になると脳の感覚は劣り、犬は正常な判断ができなくなる。

 

そして、鎮痛効果であるエンドルフィンの影響で身体に負担がかかっていても運動を続けるようになる。

 

つまり、犬の身体には大きな負担があり、脳内物質の放出でストレスがかかった状態となっており、犬は苦しんでいる状態ということだ。

 

さらに、猟は犬をも危険にさらす。

 

犬をつらい状態にし危険にさらすことは「人道的」とは言えないのではないだろうか。

 

そして、「人道的」と言うが、それを適応しているのが犬だけであり、鹿に道徳的配慮をしていない。

 

この種差別により、犬以外の動物種は多大な恐怖を経験し、命をも奪われる動物虐待が行われているのだ。

 

この犬の「しつけ」グループとはやり方が少し違うが、わたしが犬のトレーナーを目指し受講していた団体は「犬にやさしい方法」を提唱していた。

 

しかし、実際は犬にまったくやさしくない方法で、犬に恐怖を与えることや、犬を悲しませることを多く行っており、犬を人間の思い通りにコントロールする方法(犬を人間の支配下に置く)を行っていた。

 

そのため、犬は孤独を感じて悲しみ、同居人に対しての不信感を抱き、犬とわたしの関係は悪化した。

 

なにより、そのような犬との関係性は、犬から笑顔を奪ってしまう。

 

感情を失った犬は尾を振ることも激減し、表情は無表情になるのだ。

 

これでは犬は犬として自分として生きているとは言えず、犬はただただ苦しい日々をすごすことになる。

 

つまり、犬を「しつける」ことや犬をトレーニングするという発想が種差別であるということだ。

 

「犬を大事に思っている(している)」と思っていても、その「大事」が自己的な大事なのか愛情なのかを自問しなくては落とし穴にはまってしまうことが多々ある(過去のわたしがそうだった)。

 

落とし穴にはまり、犬を差別していると当然、他の動物種にたいしての差別に気づくことはない。

 

よって、人間以外の多くの動物を苦しめることになる。

 

犬を心から大事な存在だと思っている人間の感情は行動としてあらわれる。

 

わたしは大事な存在を自分の支配下に置こうという気持はわかず、悲しい思いをさせたり自由をうばったりしたくないし、ストレスを与えることや危険な状況下に置きたくもない。

 

犬やその他の動物たちには、人間の奴隷や「モノ」としてではなく、個々の動物たち(自分)として生きてほしい。

 

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