野生動物たちのことを考えると早く春になってほしいと思う。
しかし、春という季節はわたしが一年で最も体調を崩す季節。
体温調節がうまくできず、気温が高いにもかかわらず寒くてしかたがないのだ。
季節の変わり目は、人間以外の動物たちも体調を崩しやすいのでそれも心配になる。
自然界の暮らしで1番苦しい今の季節、野生動物たちの中には体力や免疫力が低下している者がいるだろう。
体調を崩しやすい季節の変わり目を越え、今より多くの食べ物を食べてお腹を満たし健康維持ができればいいなと思う。
植物が成長し始め、昆虫たちを含む生物が活発に活動し始める季節まであと少し。
そして、猟期が終わるまであと少し。
みんな、なんとか生き延びてほしい。
野生動物たちの暮らしは人びとに気にされることは少ないが、動物擁護活動をしている人たちの中には「置き去りにされる動物がいないように」とすべての動物たちのことを考え、活動されている方もいる。
そう活動している方たちの存在にうれしく感じる。
野生動物を取り巻く現状を調べていると、鹿はひどく悪魔化されていることに気がつく。
鹿たちは「農作物を荒らす」「生態系を破壊する」と言われ、「撲滅」作戦が行われている(元総理大臣の安倍晋三が「撲滅」すると言っていた)。
審議会では、鹿を絶滅させない程度に狩猟圧をかけ個体数管理をすると言っているが、現在、どれほどの狩猟圧がかかると種の絶滅が起こるかわかっていない。
ワイルドライフマネジメントを推進している研究者らは、上記のような都合よいロジックを語るが、何をもって自然生態系に適切な野生動物の個体数がわかるのだろうかと思う。
そもそも、「健全な」生態系とはどのような生態系なのかわかっているのだろうか?
「健全な」生態系を探るには長いタイムスケールでの研究が必要になる。
現在行われている生態系保護活動や生物多様性の考えは、「思想」だと語る研究者もいる(揚妻直直樹・畑田彩・市川昌広・中静透編「大学講義のためのプレゼン教材 生物多様性の未来に向けて」昭和堂、2008年)。
それはどういうことかと言うと、人間は無意識的に自分たちが望む景観を求めるからだ。
たとえば、山に植物が生い茂る景観を「『本来の』自然」もしくは「手つかずの自然」とし、そうでない山の形状は「不自然」というわけだ。
しかし、そこに本来いるはずの野生動物たちがいなかったらどうだろうか?
それでも、「『本来の』自然」というのだろうか?
植物が生い茂り「自然」と思っていても、本来いるはずの野生生物がいない自然環境は「不自然」というものではないだろうか。
現在行われているシカの個体数管理を見ていると、自然環境や野生動物についての研究が不十分であり、知識もないようにみえる。
人間が野生動物の個体数をコントロールするという発想が傲慢で、人間中心的であることから、自然環境や野生動物についての正確な情報がないがしろにされているのではないだろうか。
人間中心的な考えのもとからは、自然環境や野生動物たちの正確な情報を得るのは難しいだろう。
そのような中、進められているシカの個体数管理という政策は間違っているとわたしは思う。
野生動物の個体数管理は、個々の動物たちの苦しみ、痛み恐怖を生みだすだけでなく、死をもたらしその家族や仲間の悲しみ、孤独、つらさといった間接的被害をも生みだす。
他者の命を奪う行為は、殺害される本人だけでなく残される者の苦しみがあることを知ってほしい。
道徳的、倫理的観点からも、簡単に「駆除」などと言わないでほしい。
「お散歩で草の種、いっぱいつけて帰ってきたよ~」とひよりちゃん(♀8歳)。
参考文献
揚妻直樹「Q シカは森林の破壊者なのか?」HOKKAIDO UNIVERSITY、(最終閲覧日:2022年2月28日)。
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