昨日、夕方頃から降り出した雪は目覚めると庭にうっすらと積もっていた。とても冷え込んでいたので、犬たちの散歩は遅めに行くことにした。
野生で生きる動物たちや野外で飼育されている動物たちは、春が待ち遠しいだろうと思う。気温が高くなればそれで苦しむことがあるので、野生で生きる者、人間の飼育下で野外に生きる者は過酷な生活だ。
先日、森林や昆虫の研究者である主原憲司さんの記事を読んだ。記事は2009年と随分前のものだが、大事なことが書かれている。
主原氏は、人間による自然環境破壊やそれによる温暖化の問題を取り上げ、森の危機を伝えている。
森林に植生する植物が消え、ハチや甲虫などの昆虫は激減。バッタは森から姿を消したという。このことを読み、そういえば、わたしは(拡大造林された)山でバッタや蝶、ハチを見かけたことがないと。
主原氏は、「奥山は、もう5年前の調査データですら現状を把握できないほど、生物相がガラリと変わっています」と語る。それは、奥山だけはなく、全国の奥山に及ぶものであるという。
現在までの植物のあり方(隔年周期)が崩れはじめ、動物たちの食糧が不足し、山は動物を養える自然環境ではないという。植物・生物の自然のバランスが崩れているのだ。
自然界のバランスを崩したのは、われわれ人間である。
クマやシカ、イノシシ、昆虫などは人間活動により翻弄し、大変厳しい生活を余儀なくされている。
その野生動物たちが生きるための活動を行うと(人里現れると)、人間は騒ぐ。
騒ぐのは農作物の損失などがあるからだが、その原因を作っているのはわたしたちであることを理解しなければならない。
クマに関しては、記事にも書かれているようにクマに対して「学習放獣」(クマに恐怖を与え人間は怖いのだと認識させるものだと言われている)を行っている地域がある。
しかし、クマに対する「学習放獣」は「人身事故につながる」と主原氏は語っている。
その通りだとわたしも思う。
理由は、人間がクマに危害を与える行為(学習放獣)は、クマに対し「人間は危険で危害を与えてくる動物である」と認識させるものだからだ。このことで、クマは人間に対し、防衛行動をとりやすくなる。通常(危害を加えられていない)なら、クマは人間の存在を察知すると、人間と距離を取ることが多いだろう。しかし、人間に危害を加えられた個体は、人間に対し、警戒する度合いが非常に高くなり、少しの刺激(人間の行動)で、防衛行動にでる可能性が高くなる。
これは、クマだけでなく、犬やその他の哺乳類などにもあてはまる。犬が人間を攻撃するひとつの理由に「恐怖」がある。このことは研究から明らかになっている。
それ以前に、相手に恐怖心を植え付け、恐怖という暴力で相手の行動をコントロールしようという支配的な発想とは決別した方がいい。
クマを含め生きものは、人間が思っているほど単純ではないのだ。彼らは豊かな感情を持ち、経験を記憶し生存のために多くのことを考え判断しながら生活をしている。その彼らは、実に賢く、わたしたちが思っている以上のすばらしい能力を持ち具えている。
クマの学習放獣について検索していると、今日見つけた古い記事にも、現実的ではないという趣旨の内容が書かれており、長期的な解決策としては「ゴミの管理を良くし、クマについて人びとに教えることです」と書かれていた。
現在、クマの生息地にキャンプ場などが作られているようだが、これを問題とすべきなのではないだろうか。
クマが生息している地に、なぜ、わざわざキャンプ場や別荘、他の施設を作るのか?
クマの生息地はクマの生息地として、わたしたち人間は侵入しないようにするべきではなかろうか。
人間による自然破壊は留まることを知らない。そのことにより、野生動物との問題を作り出している。
それを、一方的に「野生動物が悪い」と言い、無数の無抵抗で懸命に生きている野生動物を殺すのはあまりにもひどい。
わたしたちは、他の種を知り、種や他者を尊重すること、他者を思いやること、配慮することを学び、野生動物との軋轢をどうすれば、解消できるのかを考えていこう。
対立や支配からは、根本的解決に至らず、個々動物の苦しみしか生みださないばかりか、予期せぬ事態を引き起こす可能性もある。
この世を暴力という破壊的な力で支配し、弱者を容赦なく排除していく社会をみなさんはよい社会と思っているのだろうか?
差別や暴力が蔓延した社会がどのようなことを行ってきたかは、世界の歴史からもわかるだろう。
そこに、種の違いはない。相手が人間であれ、他の種であれ、「やっていること」が問題なのだ。
人間中心的考えではなく、他の種を最大限尊重・配慮すること、人間の行動を規制することで、人間と人間以外の種の間で生じている問題が解決に向けて動き出すとわたしは信じている。
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