今日も冷える中、犬たちはお散歩に出かけたが、犬たちの様子から犬たちにとってお散歩に適した気候のようだった。

 

わたしは生理で不調だが、お腹をあたたかくしている(腹巻)と身体の冷えが少し改善されボチボチ作業を進めることができた。

 

今日は「至近距離でツキノワグマを撃ち抜く緊迫に現場 豪雪地帯の『狩猟民』を追った写真家・西野嘉憲〈dot.t.〉」という記事を読んだ。

 

写真家・西野嘉憲氏は「狩猟民」を撮影しているそうだが、まず「狩猟民」ということに疑問が出てきた。

 

狩猟民とは「狩猟民とは農業を知らず、家畜を飼わない民のことである」ということだが、現代、その生活をされている方がどれほどいるのだろうか?後日、詳しく調べてみようと思う。

 

西野氏が今回撮影に選んだ地は、岐阜県の最北部で、この地を選んだ理由を氏はこう語っている。

 

「写真って、基本的には1枚の絵で表現しないといけないじゃないですか。猟師さんとクマが離れていると、緊迫した瞬間を1つの画面に収めるのは難しい。飛騨地方のクマ猟は、冬眠している穴からクマを追い出して、目に前に達したのを鉄砲で撃つ。なので、必然的に猟師とクマと対峙するんです」。

 

この文面から、西野氏の「クマを殺すスリルを求めた」心の声が伺える。

 

西野氏はさらにこのように語っている。

 

「写真を見ると『うわっ、かわいそう』とか、思うかもしれないですけど、実際の現場は、ものすごーく怖いです」

 

 そして、「『冬眠』という言葉を使ってほしくないくらいですね」と、西野さんは続ける。

 

「猟師や猟犬が近くに来たときにはクマは穴の中で確実に起きていて、あとは、いつ飛び出してやろうか、襲いかかってやろうか、と臨戦態勢なんです。だから、穴から出てくるときは、めちゃくちゃ速い。動物園でのっしのっしと歩いているクマとはまったく違います」。

 

西野氏は野生動物につての知識がまったくないことがわかる呆れる内容になっている。

 

いわゆる「狩猟民」は冬眠しているクマをわざわざ探し、猟犬を使用して数名でクマを撃ち殺すということだが、仮に「狩猟民」が存在しているなら、野生動物を狩る暮らしであることは理解できる(が、近代武器を持って野生動物を殺すことについてはどうなのだろうか)。

 

しかし、現代、社会から完全に孤立した地域以外の場所では、人々は様々な食糧や物資を入手できる生活をおくっている。

 

西野氏は、クマを撃ち殺す瞬間に居合わせたいということが記事から伺えるが、そのような発想になる根底にあるのは、自分の恐怖対象でありながら事実上自分より弱者の者への支配欲求もあるのではないだろうか?と推測しているがどうだろうか。

 

自分より弱者であり自分の恐怖対象である者を「殺す」行為に対して「スリル」をあじわいたいという、なにか歪なものを感じるのはわたしだけだろうか?スリルをあじわうためには自分の身の安全確保にぬかりなくことは進められる。

 

わたしも含め、人間の言動というのは内面を表す。

 

そのため、わたしたちはそれぞれが「やっていること」に注目し、それが何を意味し、何を示しているのかを判断していかなければいけない。

 

「愛想がいいのでいい人だ」と「愛想」を人の判断基準としてよくされているが、人前で愛想がいい人であっても実際行っていることがどうであるか、そのすべてを知ることはできない。人間、人前では愛想がいい人が多いことは、みなさんよくご存知だと思う(例えば夫は人前では愛想がいいが家でまったくそうでないなど)。

 

わたしも含め、人間は自分のやっていることを正当化しやすい。そのため、自問することがおろそかにされやすい。

 

しかし、自分のやっていることに対し自問することこそがわたしたちにとって大変必要な工程であり、その工程が成熟した人間を育ててくれる。

 

自問にすぐ、答えが出ない場合もあるだろう。しかし、それを追及してこそ見えてくる自分、世界がある。

 

人間、思考してこそ、本質に目がとどきやすくより味わい深い人生を歩むきっかけにもなる。

 

わたし自身も自問を忘れず、方向性を誤ることのない(他者を苦しめない)生涯を歩みたい。

 

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