今朝はかなり冷え込み雪が降っていたので、犬たちはお散歩を中止して室内でまったりお休みされていた。

 

鹿たちは、寒い中庭に出ている時間が多く、夕暮れ時の今も庭に出たままだ。

 

今日は、「手負いのイノシシ、住宅地で大暴れ・・・警察官ら3人腕や脚をかまれケガ」という記事を読んだ。

 

兵庫県相生市那波野の住宅地にケガをしたイノシシが現れ、警察官5人と猟友会に所属する非常務の職員が現場に駆けつけ、イノシシを「モリで刺し殺した」ということだ。

 

この出来事は、驚くほかない。

 

人間が3人イノシシの抵抗にあい、ケガをいているが、これはおそらく人間の行動や動作などが不適切だったために起こったことだろう。

 

イノシシに恐怖と危機感を与え、イノシシを大パニックにさせた結果、イノシシは防衛行動を行ったと推測する。

 

ケガをしているイノシシを救助することなく、モリで刺し殺すという非人道的で残虐な行為を普通に行っていることが非常に大きな問題である。

 

モリで刺し殺すことは、一突きでイノシシが息絶えることはないだろうと推測する。

 

何度もイノシシの体をモリで刺し、殺したのではないだろうか?

 

わたしが知るモリでの殺害は、何度も動物の身体にモリを刺し殺している。

 

イノシシは強烈な痛みと恐怖を経験し、殺されたのだ。

 

どれほど痛かっただろう・・・。

 

どれほど怖かっただろう・・・。

 

そして、どれほど生きたかっただろう。

 

大事な個々を刺し殺した人は、自分が刺し殺されてもいいのだろうか??大事に思う家族や仲間をモリや刃物でメッタ刺しにされてもいいのだろうか??

 

言葉で「モリで刺し殺す」と言うと、みなさんの想像力の異なりで、捉え方が変わるが、生きた動物の身体をモリでさすということは、刺す感覚(感触)があり、とうていできることではない。

 

刺す感覚というのは、種で異なるが(筋肉の硬さなど人間とイノシシ、個々では異なる部位もあるので)、刺す感覚は生きている者の身体にモリを突き刺す感覚はその感覚だ。

 

モリを突き刺す感覚と刺された動物の苦痛の叫びなどで現場は悲惨だっただろう。

 

ケガをした動物を目の前にして、モリで刺し殺すということは、「殺すことしか知らない」という証拠であり、非人道的行為・残虐行為を社会が容認しているということだ。

 

真に社会の平和や平穏を願う社会であれば、人間以外の動物種に対して人道的行為が行われるだろう。

 

そうでない社会は、よくない部分には蓋をし(見たくないことには目を向けず)うわべだけの平和や平穏を構築しているということもよくわかる。

 

実際、この社会では本質についた議論がほとんど行われておらず、行われたとしても議論は一向に進まない。女性や子どもの権利などもなかなか改善されず、少し前身するだけでもかなりの年月がかかっている。

 

このような出来事を知るたびに、わたしたちの社会の認識は江戸時代ごろの認識だと思うことがある。

 

傷ついた動物をモリで刺し殺すことに対し、わたしは大声で批判したい。

 

本来、救護すべきなのに対し、救護せず動物に多大な苦痛を与える方法で虐殺しているのだ。

 

これはありえないことだ。

 

殺すことしか知らないというのは最も恐ろしいことである。

 

その社会でわたしたちは生きているのだ。

 

人間以外の動物種に対して行われていることと、わたしたちの生活は地続きである。

 

他の動物種に行われていることは、決して他人事ではない。

 

残虐行為は社会の脅威でしかない。

 

人間、他者に対して、思いやりや配慮、やさしさを持ち合わせていなかったら、人間には何も残らない。動物として生存に必要な能力が何もないのだ。

 

残虐行為が日常茶飯事となってしまうと人々は、それが「普通」となる。

 

残虐行為を平気で行え、野蛮な社会が構築される。

 

そうなってしまうと、想像もしたくないような地獄絵が脳裏をよぎる。

 

動物に対しての、残虐極まりない行為に対して、大きな批判が社会には必要だ。

 

刺し殺されたイノシシの苦痛は計り知れず、大事な個々が殺害されたことに胸は痛み怒りが込み上げてくる。

 

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