今日も静かで平穏な一日がすぎ、犬鹿たちはリラックスしてのんびりすごしている。

 

わたしは今日も9日のお話会の練習をし、話しの内容の確認をしていた。練習には犬のひよりちゃん(♀8歳)がつき合ってくれていたが、途中、退席された(笑)。

 

9日の本番がうまくいくといいなと思う。

 

ところで、せやろがいおじさんのYouTubeに「【決意表明】今年は2021年に叩かれすぎた『アイツ』の名誉回復に全力を注ぎたい」というタイトルの動画がアップされていた。

 

●せやろがいおじさんのユーチュブ

「【決意表明】今年は2021年に叩かれすぎた『アイツ』の名誉回復に全力を注ぎたい」

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動画の内容は、今年は「批判」の大切さを発信していきたいというもので、「批判」が社会にどれほど大事であるかということを語ってくれている。

 

今の社会は批判が「よくない」ことと捉えられている傾向にある。

 

なぜ、そのような傾向になっているかというと、せやろがいおじさんが動画で言っているように、メディアの発信や与党の発言などの影響が大きい。

 

よくないことと認識されていると、当然そのようなことを控えるようになる。

 

それが「批判」であると、批判がない社会は権力が暴走しやすく、権力者の都合の良い社会システムが次々と構築される。

 

「批判」というのは、よりよい社会にしていくために、非常に大事なことで必要なことなのだ。

 

わたしたちが様々な権利に守られ今の暮らしがあるのは、過去の人たちが「このシステムはおかしい」と声を上げ続けてくれたからだ。

 

それほど、「批判」とは大事なものなのだ。

 

知人と話をしたり、SNSを見たりしていると、「批判」と「非難」を混同されている方も多いように思う。

 

「批判」は物事の真偽や善悪を批評し判定することで、物事の良い、悪いということを論理的に考えたり、調べたりして判定することで、「非難」は、欠点や過失などを責めとがめることだ。非難は相手の間違いや欠点などを責め立てることで、相手を非常に傷つける。

 

「批判」と「非難」は全く違う。

 

このようなことを理解したうえで発言していくと、社会のよくない物事が少しづつ改善されていくのではないだろうか。

 

批判は波風立てる(争い・よくない・敵を作る)のように捉えられている人もいるかもしれないが、物事の内容について議論していくのであって、よくないことではない。

 

例えば、わたしの主張「このような理由から野生動物を殺すのはよくないので、平和共存の道を探りましょう」ということをわたしの意見と反対意見の人に話をしたとする。

 

わたしのこの発言に対し、反対意見の人は、あなたとわたし意見が異なるので「あなた敵ね」や、わたしに「敵視されている」など思うのだろうか?

 

もし、そうだとしたら議論を知らないということではなかろうかと思う。

 

物事の内容について話しをしているだけであり、意見が異なっていても、物事に対し対等に話ができるのであれば、敵も味方もないように思うのだが、どうだろうか?(対等でない場合、小さき者は闘わなければいけなくなる)。

 

わたしは批判する際、相手を敵だとは思っていない。

 

相手が現在行っていることについて、このような理由がありおかしいので見直してもらえないだろうかと思っている(企業や行政に意見する際など)。そして、事実は事実として話す。

 

なにより、物事の内容についてわたしは話しがしたいのだが、企業や行政に意見や要望、環境改善要求をしても、本質からそれた回答が多く本質の話ができない。

 

社会に批判が無ければ、社会は権力の力がどんどん膨張し、民主主義を守れなくなってしまう。

 

みんなが自分として生きることができない社会になってしまうのだ。

 

そのような社会をわたしは嫌だと感じるので、よりより社会を思い、批判をしていきたい。

 

本物のお花畑を作ろう。チューリップ紫キラキラチューリップ黄

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