昨日、「ジビエ活用で地域に光 鳥獣害が深刻化、ある集落での取り組み」という記事を読んだ。
記事は野生動物を利用する内容で、活用=利用する理由づけが書かれていた。
猪や鹿が農作物を食べるということだが、その本当の被害はどれほどのものなのだろうかといつも思う。
記事に「梅の新芽は鹿に食い荒らされた」と書かれているが、そんなに低木の梅の木なのだろうか?と思う。
鹿が梅の新芽を食べられる範囲というのは、限られているはずで、鹿が食べることができる量というのはそんなに多くないのではないだろうか(うちの梅の木の高さや枝のはりなどでも我が家の鹿たちが葉っぱに届く範囲というのはごくわずかだ。我が家の鹿たちは新芽は食べていない)。
梅の木の側に防除柵はなかったのだろうか?
猪はミカンを食べていたそうだが、猪がミカンを食べられるところに置いていたのだろうか?
そうだとしたら、野生動物対策はしていなかったのだろうか?猪が木に登ってミカンを食べたとは考えにくい。
記事内容から、さまざまな疑問が出てくるが、とりわけ気になったのが「意味のある駆除にしたい」ということと、「命をいただくという意味を伝えたい」ということ、そして、このような内容を発信するメディアのあり方だ。
記事に「最初は順調だったが、捕殺を繰り返すことに心を痛めて『意味のある駆除にした』いと考えたのがジビエ活用だった」と書かれているが、心を痛めることと、捕殺した動物を利用することのどこにつながりがあり、どのような意味があるのだろうか?
人間、心が痛むことは避ける傾向があるが、どういうことだろうかと思う。
そして、「いのちをいただくという意味」についても、その意味はどのようなことだろうか。
たとえば、よく言われている「人間は命をいただいて生きている」とか「命をいただかないと生きることができない」「犠牲はしかたがなくそのため、その犠牲に感謝する」とかだろうか。
命をいただくといっても、植物を食べることと動物を食べることを一緒に考えてはいけない。
植物は脳を持たない。なので、脊椎動物のような神経系がない。よって植物は苦痛を感じないと言われている。
一方、動物たちには脳がある。脳があるということはわたしたちを同じく苦痛を感じる。なので、たんに「いのちをいただく」と簡単に言えることではなく、植物と動物の違いを知ってそれを前提で話しをしなくてはいけない。
植物を食べることと動物を食べることの意味は大きく違う。
しかも、猪や鹿などについては「害獣」として「駆除」した動物であることや苦痛を感じる存在であることから、その意味を見出すのはきわめて厳しいのではないかと思う。
「害獣」とレッテルを貼り「駆除」という大虐殺を行っていることからは、差別と暴力しか出てこない。
他者に苦痛と死を強いることは、どのような意味づけをしても正当化できないことだ。
いのちをいただく=動物を食べないといけないという意味で使われていることの方が多いように思うが、最新の科学的知見では、人間は動物性を摂取しないで健康に生きることができるということがはっきりわかっている。
このような記事を読むといつも思うのだが、心が痛んだり、命を無駄にしたくないと思ったりしたなら、なぜ殺すことをやめないのか?と。
心が痛む、命を無駄にしたくないといいながら殺しているのは言動不一致であり、矛盾している。
そして、なぜ殺すことをやめて根本的解決に動きださないのか?と思う。
農作物被害が出ているならその根本の問題に取り組むべきではないだろうか。
日本の場合は、野生動物の生息地が大規模破壊され続けていることによって、野生動物たちが生存地の減少や食糧難で非常に困っているという現状になっている。
なので、野生動物たちが十分に生活できる山の自然環境を回復、拡大させることが最も先に行うべきことで、最も大事なことだ。
ジビエに関しては現在政府が積極的に推進しており、野生動物を殺すと収入が得られるシステムになっているので、率先して行う人が増えてきている。
この現象は、平岡昭利『アホウドリを追った日本人-一攫千金の夢と南洋進出』岩波新書、2015年。に書かれてある、「まさにこれらの出稼ぎ労働者は、いわば忘れられた『棄民』といえ~」という内容と重なる。
考えてみると「害獣駆除」で地域活性というのはとてもおかしと思う。
このような報道が普通にされていることからも社会のあり方に危機感がある。
報道する内容がどのようなことをやっていて社会にどのような影響を与え、個々にどのような影響を与えるかなど考えられておらず、行われていることだけを伝えたり、偏りある内容だったりして排除や偏見、差別、暴力を助長する報道がされているのをよく見る。
メディアの影響力はすさまじく、その情報に触れるわたしたちは無自覚に報道内容をそのまま自分の思考に取り込むことが多い。
メディアが伝える報道の内容は、社会に差別や暴力を広げ根付かせるのではなく、市民のため(生きるに必要なことなど)の情報であるべきではないだろうか。
この地球には人間以外の多くの生きものたちが生息している。そのこと知りここで共に暮らす生きものとして理解を深めてほしい。
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参考文献
・「ビーガンFAQ:#プランツゾウ」The Real Argument Blog(最終閲覧日:2021年3月22日)。
・「いただきますの倫理」はいつごろ広まったのか(2)」Daily Life(最終閲覧日:2021年3月22日)。