ここ最近、自分の評価は自分でするのがいいよね、とつくづく思う。
以前は、他の人の評価ばかり気にして生きていたわたしだが、人間や社会について学ぶと、他の人の評価を気にする自分と向き合うようにもなり、他の人の評価を気にしないで、自分として生きられるようになってきた。
そして、自分の立ち位置をしっかり知っておくことも大事だよね、と思った。
鹿たちと暮らすようになってから、「家で鹿を飼うアホ」とメッセージが届いたことがあったが、わたし自身、「アホ」とは思っていないし、わたしにとって、今の暮らしは特におかしな暮らしではない。
他の人から評価されることの多くは、社会で一般化していることからされている。
なので、一般的ではないことをしている人は「あの人、変わっている」とか言われやすいと思う。
そうやって、多様性を無視し、マイノリティを排除していくのだ。
わたしが今、関わっている人たちの多くは、わたしとよく似た価値観だったり、物事の判断をしたりしている人たちなので、自分がマイノリティだということをうっかり忘れてしまう。
「犬にしつけはいらない」と言っている時点で、マイノリティなのだが(苦笑)。
人間以外の動物に対しての同じ価値観を持つ人は周囲にいないが、SNSをのぞけば、よく似た考えの人が多くいる。
多くいるが、社会ではマイノリティになる。
人間や他の種の動物は個々に違うのに、社会で一般的になっていることに、すべての個々をあてはめようとするので歪が生じる。
その歪は個々のつらさや痛みになる。
社会が作り出している基準から評価されるので、ひとりひとりを尊重することもなく、「お前は○○ができない」とか「劣っている」、「なまけている」(=頑張りが足りない)と言われることもある。
個々の能力はそれぞれ違うし、感じ方、考え方なども違うので、このようなことを言うのはおかしいと思うし、人権侵害になる。
わたしの場合、自分の持ち具えているもので、生きにくいと感じることがあり、一般的な基準から自分は劣っていると思うことがとてもある。
しかし、わたしはその自分で今を生きようと努力している。
その努力が、他の人から見て「全然足りていない」と見られても、わたし自身はがんばっている。
なので、その自分の評価を自分ですることを意識したいと思うが、生きているだけで十分がんばっているので評価はいらないと思う。
ただ、一生懸命になるのはいいが、そのがんばりが、自分都合だけのものになっていないかに気をつけたい。
自分自身のことは、自分で気づかないこともたくさんあるが、感情などは自分でよくわかる。
感情について、傷ついたり、かなしかったりしたことを他の人から、「それはお前が弱いからだ」とか「気にし過ぎ」と言われても、自分が感じるその感情は確かなので、自分の感情を大事にしたい。
そして、自分の感情について、「わたしはなぜ、そう感じたのか」と、問うのもいいかなと思う。
そうすることで、自分と向き合うこともできるし、自分に向けて言われる言葉が正当なのかどうかもわかるようになる。
物事によって、自分の立ち位置が変わってくるので、自分の立ち位置について意識できるといいなと思う。
夕ご飯を食べてくつろぐ、犬のひよりちゃん(♀7歳)と鹿のすぐるちゃん(♂3歳)
すぐるちゃん、電気ストーブのもりをしているそうです。
にしても、ストーブにちかすぎないかい(笑)?
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