今日は同級生が集まっていました。わたしは参加しないで家にいましたが、ビデオ通話で少し参加しました。

 

すると、髪の短いわたしをみた幼馴染が、「少年やな~」と言いました。わたしは同級生のその言葉に悪い気はしなかったです。

 

なぜなら、わたしは今の暮らしをするようになってから、自分の気持ちに素直に生きたいと思ったからです。

 

わたしが育った環境は生物学的に♂と♀にわかれていて、男と女は結婚し、子どもを生むという社会です。なぜかヒトの生涯の形を社会が勝手に作っています。

 

生まれると身体的なことから「男らしさ」や「女らしさ」を常に意識させられる社会に生き、日々、男と女は違うものだという意識を植え付けられています。

 

そこに、ヒトひとりとしての個性はないです。

 

そのなかで、わたしは「女」として生きていますが、もし、性でわけることのない社会であったなら、わたしはどのように生きていたのだろうかと思います。

 

ヨーロッパの一部の地域では、性は子ども自身が決める、とう試みが行われているそうです。わたし自身、そのような環境で育っていたなら幼いわたしは、「わたし男の子~」と言っていたかもしれないな~とも思います(わかりませんが)。

 

わたし自身、幼い頃から男の子になりたいと思う時もありましたし、魅力を感じるヒトは男であっても女であっても同じで、わたしにとって性は生きるにどのような意味があるのか?と考えることもありました。

 

わたしが男の子になりたかったのは、父の職業を継ぎたい(わたし自身その職業をやってみたかった)というのがひとつにありました。しかし、親は女であるわたしに「その職業はさせられない」と言うのです。その頃から、女も男も関係ないのに、と強く思っていました。したい者、できる者がすればいいと。

 

女性差別が今もなお色濃く残る社会で、成長するにつれ、わたしは社会が作る「女性」に自分を近づけよと必死になっていました。なので、他人の評価など気にして落ち着かず、無理ばかりしていました。

 

わたしは女だから、「女らしい」かわいい服を着て、髪も長い方がいいだろいとか、言葉使いも男とは違う、「女らしい」言葉使いをしなきゃとか、お化粧をしなきゃとか、言い出すときりがないです。

 

これらすべて、わたし自身が「しよう」と思って行うようになったのではなく、社会のあり方がわたし自身の性格や行動、思考に影響を与え、このようなことを行うようになっているのだと気づきました。

 

本当のわたしは、「女らしい」と言われている服装はすきではないですし(ごくたまにスカートをはきたくなることはあります)、行いたいことも「女らしい」ことではないことが多いです。

 

今の生き方になり、わたし自身無理をしないで自分の気持ちに素直に生きはじめて、とても気持ちが楽になっていますし、なにより、ありのままの自分でいられるのが心地いいです。

 

幼馴染はビデオ通話で今のわたしをみて、「○○ちゃんらしい」と言っていました。幼馴染だけにわたしの変化をずーとみてきているので、わたしを理解してくれているのだと思います。

 

これからは、わたしの生き方を社会に決められたくはないので、自分に意識を向け「わたしはどうしたいのか」「どう生きたいのか」を見直しながら暮らしていきたいと思っています。

 

今、わたしは男か女かと問われると、生物学的には♀ですが、その他(思うことなど)は今の社会が決めている男と女という性のあり方がMixしているという感じかな、と思います。自分で自分の性がはっきりしないということになっていますが、いろんなわたしがいていいのだと思います。

 

わたしたちの社会もこれから人権意識や男女平等意識などが高まり、ひとりひとりが尊重され、ヒトひとりの個性を育てる社会になっていくといいなと思います。

 

 

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