お久しぶりです。
ブログを休んでいる間、わたし自身整理できたこともあり、頭が少しスキッとしています。
人間であるわたしの人間性など、わたし自身でよくわからないところがあったのですが、わたしという人間がどのような人間なのかを少し知れたように思います。どのような面(わたし)もわたしで、いろんなわたしがいていいのだと思いましたし、それがわたしなのだと。今まではわたし自身、イヤだと思うわたしを否定していましたが、否定するのではなく、そのわたしを受け入れどのように向き合っていくかだと思いました。
わたしは人間という種で、その人間(わたし)は今までいた環境で作られ、それはしっかりとその人間にしみ込んでいます。なので、自分にイヤだなと思う面があっても、すべてクリアにすることは簡単ではないと思います。しかし、わたしはどのように生きたいのか、どのようになりたいのかが大事で、そこからこれからのわたしが作られていくのだと。
人間という種は、残酷で欲深で身勝手な生きものですが、その面より、思いやりややさしさ、他者を尊重するなどのあたたかな面(利己的な愛情ではない愛情)を個々がもっと感じることができれば今よりもっと個々の生涯が豊かになるのではないかなと思います。
人間は理性を持ち具えていると言われていますが、現状を見渡すと残念ながら多くの人たちはその理性を十分に発揮できていないように思います。
今日が過ぎれば明日がきて新しい一日が始まり、自身、一日一日何も変化なく過ぎ去っているように思うことがあっても、何かを学びその学んだことからこれからの行動や選択などに影響を与えていて、その中でより思考すること、学ぶことを放棄しないでいたいです(←自分に何度も言ってます)。
来る日、来る日、よくないニュースや記事、出来事などで希望が持てなくなりますが、海外の動きや変化などからは希望が持て、人間の可能性を感じます。
沈黙は波風立てず穏やかに見える日々を作り出すかもしれませんが、その中にある多くの個々の苦しみや痛み、恐怖、悲しみ、孤独、死を覆い隠してしまいます。
社会の負の部分を隠さずに、その負の部分を根底からなくしていくことに尽力すべきだと思います。
歴史に非常に詳しい友人との会話で、何度も言われていることがあります。「社会が変わっていくには何年もかかる」と。しかし、わたしにはそのタイムスケールがピンとこないでいました。その長すぎるタイムスケールにその間、犠牲になる者たちの苦しみ、痛み、恐怖、かなしみなどに胸がねじり潰されそうになり、わたしに焦りが出てくることがありますが、焦っても、今すぐにどうにもできないという現実があります。
種問わず小さき者、弱き者を擁護することに対し、現在、非難などされることが多いですが、それ自体がおかしく、小さき者、弱き者に目を向け困らないように手助けしたり、保護したりすることは本来決して非難されることではない当然の行為です。
社会のあり方がどうであっても、良心を失わないようにしたいです。
またこれからよろしくお願いします。
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