わたしは昨日の疲れが出て鹿たちに「起きなさーい」と布団ホリホリしてもらって「あ!朝だ」と起きることができました。
今日は人間が利用している動物たちの生涯を記録したDOMINIONを最後まで見ることができました。
がんばりました。
途中、画像に耐え難くなったので動画画面の一部に薄い小さな紙をはり付け、紙から透けて見える画像とクリアな画像とで見ていました。
音は全て聞きました。
感想は明日書こうと思います。
わたしたちは動物たちを当たり前のように利用していますが、そのことに心地わるさを感じることはないですか?
わたしは以前、一緒に暮らしていた犬のるなちゃんとさまざまなことを行ってきました。
そのことを通しわたしは心地わるさを感じ、わたしがるなちゃんに行っていることはるなちゃんの日々の暮らしやるなちゃん自身を無くすわたし自身のエゴであると痛感しました。
トレーナーになるための実践テストの練習や本番、ダンスにイベントなど多くを一緒に行ってきました。
ドッグスポーツやダンス会場でわたしが目にしたのは、参加者のほとんどの方がよい結果をおさめようと懸命でした。
ある競技では、競技中に犬が脚を負傷し走ることができなくなりました。
そのとき、その犬と競技に参加していた人が「チッ!」と舌打ちをしていました。
テスト会場では、そのテストに数度のチャレンジをされている方が、「ようやく吠えなくなった」と言っており、話を聞いていると「吠えること、鳴くこと全て禁止した」と言っていました。
わたしはこのような会場へ行くたび、胸になにか詰まるものがあり「わたしがやっていることは何なんだろう」と考えるようになっていきました。
わたし自身にも起こりましたが、動物たちに芸をさせる、自分のために何かをさせるなど、このようなことは歯止めが効きにくくなり、犬に対してのわたしたち人間の要求が増し、エスカレートしていきます。
自分自身、自分の感情や欲求をコントロールできている、と思っていても人間の傾向上、実行されていないことがほとんどではないかと思います。
るなちゃんは、とてもやさしく無邪気で練習やイベントなどわたしと一緒に行動することをよろこんでいるように見えていましたが、るなちゃんがよろこんでいたのは、純粋にわたしと一緒に過ごせる時間でした。
トレーニングをしたいのではなく、ダンスが特別好きというわけでもなく、会場で犬同士かかわることでもなく、嗜好性ある食べ物が目的でもなく、ただ同居人との時間にキラキラとしたやさしい目でよろこび、その時間が好きだったのです。
このことに気付いてあげることができるまでに長い月日がかかっていました。
わたしがるなちゃんに行っていたことは、るなちゃんのためではなく、わたし自身が輝くためにるなちゃんを巻き込み、利用をしていたと気づいた時には、るなちゃんはまだ若いのに顔は白髪で白くなり、体中白い毛が増していました。
春ちゃんの幼少期もわたしは春ちゃんを使い、自分がしたいことを行おうとしていました。
*自分が輝く→自分のよろこびや満足感はもちろん、自己肯定感を高めるためというのも含まれていると思います。
るなちゃんや春ちゃんの気持ちを知り、わたし自身の行いに猛烈に反省をしてからは、犬のふたりの気持ちを聞き(日頃のコミュニケーション)、ふたりが安心して気持ちがほぐれるよう見守りすごしたいと思いました。
しかし、今までが命令をするばかりの日々だったので、わたし自身、犬たちとスムーズにコミュニケーションをできるようになるまで少し時間がかかりました。
犬たちの気持ちを聞きとり答えることが上手くできず、落ち込んだり、どうしたらいいのか悩んだりした時期もありました。
ある日から、落ち着いて犬の習性やボディランゲージ・カーミングシグナル、表情、鳴き声、能力など正しい知識と犬たちに聞きながら学んでいくうちに気付くと犬たちの気持ちや必要としていることが犬の全身からわかるようになり、正しく答えることができるようになり、スムーズにコミュニケーションをとれるようになっていました。
日々、犬たちに聞くことを実践し、犬の気持ちに答え、犬たちが伝えてくれることから学び少しずつ関係を深め犬たちにとって安心できる同居人でありつづけたいなと思っています。
わたし自身の身勝手な欲求から自分が大事に思っている犬たちや他の動物を利用するのは、動物たちの意思を無視した行為であり、個々の存在を無くしてしまうという同じ過ちを繰り返さないよう、意識して暮らしていきたいです。
そして、犬を大事にしている、ということの「犬を」の部分を間違えないようにしたいと思いました。
犬を大事にしていると思っていても、犬や他の動物たち自身が大変苦しみ、かなしみ多き日々であるならそれは犬以外の何かを大事にしているということではないでしょうか。
過去の経験から、利己的欲求を満たすために犬や他の動物たちを犠牲にすることは今後絶対にしたくないなと思いました。
るなちゃん。
るなちゃんとはもう会えないし、体のあたたかさを感じ合うことはできないけど胸のなかで会おう。
るなちゃんという、今は存在しない一頭の犬が生きて存在していたということを知っている人がいる。
個々の存在についてまた考えさせられています。
個々の存在を最初から無いものとされ、生きている犬や他の動物たちがいる。
わたしたち人類は個々を尊重し、相手を思う思いやりややさしさなどを大事にし、優先する日がくるのだろうか・・・。
ポッチとお願いします。
↓