今日は鹿苑での話から、わたしが感じたことをまとめようと思います(文章が長くなりました)。
鹿愛護会の行事のいつくかにわたしは賛成できませんが、鹿苑は鹿たちを助け、守る施設だと思い見学に行ってきました。
しかし、話の内容から感じ取ったことは、愛護として、運営されているのではないと感じました。
鹿たちに対し鹿を思い、寄り添う気持ちがなく、あまりにも鹿たちを蔑んだ話の内容、接し方にわたしのショックが大きかったです。
施設は昔、一般公開をしていなかったそうです。
一般公開されるようになり、それはよかったなと思います。
施設で生涯暮らすことになった鹿たちは、生涯「生草」を食べることができません。
イネ科、マメ科の乾燥草、米ぬか、ドングリなどだそうです。
おおくの鹿が暮らすには、狭すぎる敷地面積で、食事場所の小さな屋根がある以外、
日差しや雨、風をしのぐ場もありません。
大木が何本かあり、葉が茂る夏には少し日陰ができるではないかと思いました。
犬たちもですが、野生動物たちも日差しや雨、風をしのぐ動物です。
食事の草は、ウシ、ウマたちが寝床用に使用している乾燥草(おそらくかたい)を食べているそうです。
おどろきました。
鹿は何でも食べるということですが、この施設に閉じ込められているので、わたしたち人間が与える食事を食べる選択しかない状態です。
鹿ももちろん感覚神経があるので、個体で食の好みも違います。
野生動物と関わる獣医さんの中には、個体の個性や食事の好みを把握し、その個体が求める食事を与えて、何種類もの食事を用意している方がいます。
ほとんどの鹿たちは柔らかい生葉を好み、乾燥草は、乾燥草のなかでも特に柔らかい3番刈りを好みます。
施設に鹿を搬送するさい、鹿に麻酔をします。
鹿のように首が長い草食動物に麻酔をかける行為は生命の危険があり、非常に難しいのですが、施設では年間300頭を超える鹿に麻酔をおこなっています。
麻酔事故は0だそうです・・・。
子鹿公開にむけて施設に搬送される母親たちにも麻酔をします。
小鹿公開場所として、母親、小鹿がいるエリアでも日差しや雨、風をしのげる場所はほんの少ししかなく、見物客用の日よけの方が多いのではないかと思います。
見世物として扱われていますので、屋根を多くつくると見物客から鹿たちの様子が見れなくなると困るからでしょうか?
施設の敷地は建造物建設不可な地区で、しっかりとした屋根を作ることができなくとも、シェードや遮熱シートをはり、日差しや雨よけができると思います。
小鹿公開を始めると、カラスが小鹿を食料として狙にきます。
毎年、この時期になると、ここに小鹿がいるとを記憶しているカラスもいるので当然なことです。
カラスにより、小鹿が傷を負うと、母鹿は小鹿が生存不可と判断するようです。
このような判断は判断する個体の状況、環境、種によっても違ってくると思います。
その後も問題です。
母親がこの子はもう助からないと判断した後、その小鹿はどうなるのでしょうか?
なんと、そのままだそうです。
他の鹿に踏まれて負傷した個体やカラスによる傷を負った個体も、人間はその小鹿の命をあるものにする行為は行わない。
つまり、個体数を増やす行為はおこなわないということです。
しかし、他の傷ついたり、弱っている他の個体は保護、治療する。
ここでも人間中心主義があり、倫理的判断はされていないと感じました。
矛盾がおおすぎます。
そして治療に関しての話は、わたしは言葉を失いそうになりました。
治療してもその後のケアがうまくできず、死亡してしまうということです(治療後、生存している鹿もいます)。
縫合個所を鹿自身、歯で引っ張り、取ってしまい、翌朝死亡していたり、足に巻いてある包帯を必死で外そうと鹿がするので、どうしようもないということです。
たくさんの鹿がいる野外空間に、治療した個体を入れる判断は、わたしは適していない思います。
施設は24時間体制で夜間は一人ですが、治療後の鹿の看護はできると思います。
包帯を取ろうとするのであれば、鹿に「とらなでおこうね」と伝えることができ、包帯が取れた場合は、再度巻き直してあげればいいと思います。
夜間、ただいるだけでは24時間体制看護ではないということになると思います。
一人では看護ができないのなら、二人に増やすといいのではないでしょうか。
鹿の治療後は、個室で看護、看病してあげるのがいいと思います。
個室の話から、鹿がとにかく逃げようとし、柵などに頭をぶつけ、ケガと違う個所に傷を負い、個室での看護は不可能だというのであれば、それはその個室の広さが鹿にとって狭いということだと思います。
そして、人工的すぎ空間も鹿にとっては居心地がよくなく、落ち着かなると思います。
鹿にとって、少しでも快適な空間作りを工夫しながらおこなうことが大事だと感じます。
野生動物の保護、治療、看護は本当に難しいと感じます。
そのことはよくわかります。
しかし、不可能ではないのです。
鹿の気持ちに寄り添い、丁寧に接してあげることで、鹿はわたしたちに手厚い看護をさせてくれるようになります。
一度も人と接触したことがない野生動物でも、わたしたちの接し方、関わり方次第で、コミュニケーションが成立し、治療であることを理解し、その治療に協力をしてくれます。
そして、野生動物がわたしたちを受け入れ、信頼してくれる関係を築けるのです。
しかし、「鹿は頭が悪く、痛みにも鈍く、恩も感じず、逃げまわり看護が難しい、とくに野生動物は」という認識で接し、関わっていると可能な物事もそうでなくなってしまいます。
人間至上主義である以上、真の動物の姿を知ることはできないと感じました。
相手(動物)に寄り添い、尊重し、同じ生き物として尊敬をし関わることで相手を知ることができ、相手のことを知ろうとしない姿勢では、相手と仲良くなることもできないと思います。
人間同士でもそうだと思います。
わたしたちはもっと福祉について考え、学び、向上にむけた認識をもつことからだと感じました。
奈良公園の鹿たちの栄養状態がよくないということは、森林ジャーナリストの田中敦夫さんが調査し、鹿の解剖結果から判断しています(信憑性が高いといえます)。
そして、毛がピカピカな鹿↓
わたしは動物園に賛成ではありませんが、こちらで暮らす鹿たちの毛並みは非常に美しいです(ベルリン動物園)。
↑ニホンシカと違いますが、栄養状態がよく、ストレスのかかりが少ないニホンシカもこの鹿のように毛がピカピカしています。
奈良では鹿は古来、「神の使い、神鹿(しんろく)」として大事にされてきましたが、現在は鹿たちが、ただ生きることも許されない社会であるという事実。
野生動物といい、これだけ人間が介入し、そのことにより鹿が命を失うことがあっても、死を「よくあること」として認識されていないか、わたしはとても不安になりました。
動物に必要なモラルの柱である、互恵・共感と思いやりの柱を外すとほとんど何ものこらないということ・・・。
わたしたちは自分自身を大事にすることから、より他者にもやさしくなれ、共感でき、そこから得ることや進みだしていく物事は福祉にも繋がると思います。
わたしたちの住む社会はどんどんよくない方向へむかっていますが、みんなの問題意識がよい方向へ動きだすと思います。
この先、おそすぎたということにならでほしいなと心から思います。
気分が落ち込んでますが、明日という一日に向けてですね。
ポッチっとお願いします。
↓