戦争と日常:この世界の片隅に

 

今日は、前々から見たいと思っていた片渕監督作品「この世界の片隅に」を視聴しました。

 

何と言うか、これは沢山の人々に見てもらいたい作品ですね。とても細かに戦中の日常というものが描かれておりました。祖父の話や戦時中の日記などを見ていると、本作は従来の戦争映画にあった極端な「反戦」や「戦争賛美」といった主張を排除した、本当にありのままの戦時中の人々の心情が映しだされた作品であると思いました。

 

しかし、なんというのでしょうか。主人公であるすずの「青春」が戦争と被りその青春もエンドロールと共に過ぎてゆくところに私は耐えられず涙してしまいました。彼女の青春は戦時中という構造で、おしゃれをすることも恋することも、趣味に没頭することも平時と比較するとかなり制限されてしまい、その上、不発弾で右手を失い趣味であった絵を描くことさえ、奪われてしまったというのが辛いです。

 

彼女が玉音放送を聞いて戦争に負けたと知ったとき途轍もなく怒ったのは、戦中のなかで彼女なりの青春を見つけ過ごしていたというのに、「本来あるべき青春」を奪った国が終戦・敗戦によって手のひらを裏返したかのように「戦時中の青春」を否定したからだと感じました。

 

責任とってよ!という怒りです。

 

ふと、茨木のり子さんの「私が一番きれいだったとき」という詩が私の脳裏を過ぎりました。

 

(以下、茨木のり子さん「わたしが一番きれいだったとき」より一部抜粋)

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 

さて、映画館をでると、たまたまイケメンアイドルグループのミニライブが開催されており、サイリウムを持った女子達が幸せそうにはしゃいでおりました。

 

ああ、と思わず溜息。

 

――普通の青春は守らねばなりません。