昭和を知る旅〜南房総〜

 

只今、祖父母と南房総を旅しております。

 

泊まりに来た所は、房総半島の最南端、野島崎のすぐ近くにある南国ホテル。

 

20年もののポンコツカ……愛車ではなく、祖父の今風のCX-3の運転性能に感動するのも束の間、南国ホテルの佇まいにびっくり。見るからにしてThe昭和、昭和が漂っているんです。

 

中もやっぱり昭和。クレしんのオトナ帝国がそこにはありました。見かけによらずめっちゃ大盛況です。ただ、平日だからか子どもはおろか1、2、30代もほぼいません笑。

 

でも客室からの眺めは素晴らしく、海を見ていたらイルカが数頭泳いでいました。

 

これまでの旅路で、灯台巡りと第二次世界大戦の遺構巡りを祖父母と行ってきました。特に、海軍館山航空隊が大戦末期に急ピッチで作ったとされる赤山地下壕はとても印象的でした。

 

大本営の避難予定地だった松代大本営にも行ったことがあり、それと比較すると小さいですが、でも全て手作業で作ったと聞くととても立派で大きな地下壕です。

 

祖父は戦時中は小学生で東京の千駄ヶ谷におり、米軍の空襲が始ると頻繁にこのような地下壕に避難したそうです。東京のは赤山地下壕とは比べ物にならないほど大きくしっかりしていたらしいです。ただそれも米軍の徹底的な絨毯爆撃には無力で、多くの人が地下壕に避難しても地上が炎上しているので煙が地下壕にも入り込み、窒息して亡くなっていったそうです。幸い祖父のいた地域は、昭和20年3月の東京大空襲でも被害が軽度で済んだことに加え、祖父は昭和20年5月に親戚を頼り東北に疎開することができたので間一髪で難を逃れました。生き残ったのは運が良かっただけだと言ってました。

 

赤山地下壕の近くには現在は一基しか残っていない戦闘機用の防空壕もありました。掩体壕といい、そこに館山飛行場の零戦や紫電などの戦闘機を避難させていたとのことです。

 

近くで見ると思った以上にかなり大きく、これを大戦末期に住民学生兵士総出で40基以上作ったと知ると当時の逼迫した状況を感じられました。

 

掩体壕を後にするとき、祖父が一言呟きました。

 

「あまり整備されていないし、ここも忘れ去られていくのだろう――」

 

2019年12月15日南国ホテルにて 

 

2019年12月15日 南国ホテルの客室より 

 

2019年12月15日 夕暮れの磯笛公園にて 野島崎灯台のシルエットが浮かぶ 

 

2019年12月16日 洲埼灯台にて 「がんばろう館山」の横断幕が掲げられていました。 

 

2019年12月16日 赤山地下壕にて 総延長1.6kmの地下壕です(一般開放されているのは250m)。真っ暗な所もあり迷路のようです。 ちょうど、フジテレビがドラマの撮影をしていました。 

 

2019年12月16日 赤山地下壕にて 士官室とありました。 

 

2019年12月16日 掩体壕にて 零戦や紫電をここに避難させていました。 これだと、戦闘機の脚を引っ込めても入らないので、実際はもっと高さがあったはずです。