7年前の今日、僕は初めて「北方領土」をこの目で見ました。

北対協主催、内閣府後援のもとで行われた、「平成28年度北方領土ゼミナール」に鳥取県代表として参加したことがきっかけです。

日露の外交問題、とりわけ領土問題については、平成22年のД・А・メドヴェージェフ氏の国後島訪問を契機に関心を持ちました。当時、中学3年生であった僕にとって、その出来事がなぜ、どうしてここまで自分の中で重要なことと捉えたのかは今に至るまでまだ分かりません。

ただ、これが始まりとなり、日露の領土問題を調べていくうちに、日露関係やロシアそのものについても関心を持つようになりました。

そうして、大学時代は、第二外国語はロシア語を履修、ロシアにも二度ほど行きました。

北方領土ゼミナールの存在については、大学から推薦されて初めて知りました。当時は、個人的に勉強するだけで、日露関係について特に何か発信していた訳ではなかったので、この突然の推薦は奇縁ともいえるものでした。

もし、メドヴェージェフ氏があの時、あのタイミングで国後島に訪問していなければ、僕の未来は相当に変わっていたことでしょう。或いは、日露の領土問題がない世界に生まれていたならば、僕はロシアに関心を持つことはなかったかもしれません。皮肉なものです。

さて、7年前の平成28年9月7日に人生で初めて見た北方四島は国後島でした。その姿は、思った以上に北海道に近く、しかしどこか遙かなる地を感じさせるものでした。

また、ゼミナール期間中は、皆で納沙布岬にも行ったのですが、濃霧のために歯舞群島などを見ることは全くできませんでした(当時の記事「霧の中の北方領土」)。

しかしここは、僕からすれば遠く離れた日本の最果て――。

この機会を逃せば、いつ目にすることができるか分かりません。なんとかこの目に焼きつけたいと思い、最後のチャンスとなるゼミナール終了翌日の飛行機の出発時間までの間に、もう一度納沙布岬に行こうと決心しました。

朝、当日の良好な天気に期待を膨らませて納沙布岬行きのバスに乗りました。
他のメンバーも誰かしら来るだろうと思いましたが、バスの出発までに誰も来なくて、同じ思いを抱く同志はいないのか~と少し寂しくなりました笑。

そして、納沙布岬に到着。

雲が広がってはいましたが、風が強く、視界は開けていました。
風の音、波の音、しじまな水面、その向こうに浮かぶ平らな郷々――

岬とその郷々の間には、海から一本棒みたいなのが突き立っています。
――貝殻島灯台です。

あれが、日本から一番近くて遠い場所なのかと思いました。

納沙布岬から3.7km離れた海に浮かぶ貝殻島灯台を北方館の望遠鏡で見ると、その灯台の持つ雰囲気に魅せられました。

灯台はピサの斜塔のように傾いており、天辺にはハットを斜めに被るように金属でできた何かを乗せています。味のある美しい存在です。

こうして、貝殻島灯台をはじめ、水晶島や秋勇留島といった歯舞群島の島々をこの目で焼き付けることができ、あの日は僕にとって非常に貴重で忘れられないものとなりました。
 

* * * * *
 

さて、貝殻島灯台は昭和12年4月に建てられ、今年で86年になります。

平成29年には、日露両国の首脳が、貝殻島灯台の改修検討に合意しましたが、結局その後何もなく……

このまま手も加えられず、朽ちていくのかと思ったところで、先月末のニュースがありました。

一連の出来事は、8月2日に貝殻島灯台でロシア国旗が掲揚されるところから始まりました。その後、灯台の改修を経て、8月26日には平成26年11月以来9年ぶりに灯台を点灯するという所まで至りました。加えて、ロシア正教の十字架を設置するなどのことも行っています。

こうした行為は、実効支配を強めることを日本に対してアッピールすることや、ウクライナ侵攻に対する日本の制裁への応酬と考えられます。また、貝殻島から近いサハリン州地域の住民に対して、ロシアへの愛国心の鼓舞を図る狙いがあるのかもしれません。

無論、平成29年に日露間で合意した、貝殻島灯台の改修検討のことがありますので、それを無視して何の話し合いもなく改修を行ったことは非常に残念です。友好の証になったかもしれない灯台の改修が、更なる敵対と不信を生む悲しい結果となってしまいました。

なお、今回の件について、ロシア側の報道を見てみると、これといったニュースにはなっていません。

モスクワの新聞社、ポドモスコヴィエ・セゴドニャの報道では、貝殻島(現地ではシグナリヌイ島=ロシア語で灯台の意味)にロシア国旗を掲げたことや、それに対する日本政府の抗議の内容、また、日露間の係争地域について現在のロシア政府の対応を簡潔にまとめて記事にしていました。

ここで興味深いのが、日露の領土問題に対する現在のロシア政府の対応を綴った一文です。

Еще в прошлом году российское правительство прекратило любое урегулирование по части спорных территорий из-за санкций со стороны Токио.

訳すと、「昨年にロシア政府は、東京からの制裁によって係争地域に関するいかなる和解も停止しました」となります。

このなかで和解の停止については、「прекратило」とあるので、「停止した」といえます。したがって、ロシア国内では日露の領土問題についてなかったことにされたり、破談したといったニュアンスで報道されている訳ではないのです。

現実は非常に厳しいと思いますが、日露の領土問題の解決がもうできない訳ではありません。それはロシア側のこの記事の一文でも感じられました。

このような情勢で、このような出来事がありましたが、希望はあると僕は信じています――

 

平成28年9月8日納沙布岬より冨井撮影
(手前が貝殻島灯台、奥が勇留島)
→当時の記事「歯舞群島をこの目に焼き付けて

 


僕とロシア
~日露の領土問題の冨井篤弥の考え方について~

日露両国間が抱える外交や領土問題についての僕自身の基本的な考えは、令和3年12月7日に衆議院に提出した「日ソ共同宣言に基づく日本国とロシア連邦との間の平和条約締結問題および領土問題の早期解決を求める陳情書」になります。

以下にその陳情書の内容や、関係資料のリンクを掲載いたします。

陳情の説明資料

ロシア連邦憲法第67条について

僕自身の基本的な考えを簡潔に説明したものにつきましては、「僕とロシア」のトップページをご覧ください。

 

冨井 篤弥