野呂川谷の樵夫達 | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

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朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

「野呂川谷の樵夫達」は地味な山行記である。


私は一時山に登っていた。きっかけは新田次郎の山岳小説であった。しかし当時の私には職業柄まとまった休暇は一切なかった。基本的に日曜だけで土曜も残業である。そんな私は山に登るといったら夜行列車で上越国境に行くか、車で秩父山塊、西上州の低山逍遥でしかなかった。


さて「野呂川谷の樵夫達」だが、作者は野尻抱影氏。1885年(明治18年)生、1977年(昭和52年)没。英文学者であり、随筆家、天文民俗学者である。そして準惑星「Pluto」の和名「冥王星」の命名者でもある。かわったところでは、「しょこたん」の姻戚関係にあたる。


さて、この野尻抱影氏だが、1907年(明治40年)から1919年(大正8年)まで山梨県甲府市の中学で教鞭をとっていた。そのころ山の魅力に取り付かれ、周辺の山によく出かけたようである。そうはいっても、もともと登山の経験がなく、また現在のように登山道が整備された時代ではなかった。


この小説に書かれているのjは氏が山を登り始めた初期のころの話らしく、「猟師に1日の日当1円50銭を支払って道案内をお願いした南の山々は、その雪・雲・星とともに終生の思い出となっている」と記されている。


内容は夜叉神峠(当時の猟師は「ヤザジン」と読んでいた)から広河原、野呂川周辺の山への山行記であり、物語の中心はそこでであった樵夫達との交流や、小さなスペクタクルが、描かれている。


当時の樵夫たちはこの山奥から二十五貫の丸太を切り出し、一人で六里の山道を芦安まで引き卸し、2円50銭の収入を得ていたことも記されているが、ずいぶんな重労働だったと思われる。


※芦安(村)=現南アルプス市芦安芦倉地区

(二十五貫=93.75kg、六里=24km)

氏も述べているが、半世紀前の記憶を頼りに記されたものであり正確さにはかける部分はあるが、当時の人々の生活の厳しさや、素朴さが淡々と記されている。氏の目的は、こんな時代もあったのだということを後世に残しておきたかったことにある。


なお、この小説は以下の書籍に含まれている。



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