前説<<タロとジロ>>

『南極大陸の第一次観測隊』よりも前に白瀬矗率いる『白瀬探検隊』が南極大陸に挑んでおり、その時に活躍したのが樺太犬のタロとジロの語源となる樺太犬のタロウとジロウである。

 タロとジロの父親は風連のクマであり、風連のクマは『白瀬探検隊』に挑んだ樺太犬の子孫にあたる。

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 白瀬探検隊→白瀬矗や{タロウとジロウ}や{風連のクマの先祖}らを率いる・・・1912年上陸

 第一次観測隊→菊池徹{タロとジロ}や{風連のクマ}らを率いる・・・1957年上陸   ※ドラマの南極大陸が適確


 ↓タロとジロ生存の記事(読めないので雰囲気を)
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 白瀬矗 本名は知教

(1861~1946) 日本生誕 秋田県出身 日本の陸軍軍人・南極探検家

 11歳のころに寺子屋の教師より北極の話を聞き探検家を志す。そのときの教師である佐々木節斎は白瀬に5つの戒めを教えた(酒・タバコ・茶・湯を絶ち、寒くても火にあたらない)白瀬はそれを守り続けたとされている。

 1879年に陸軍教導団騎兵科に入校。その際名を矗(のぶ)に改名。

 1893年に千島探検隊に加わり、千島列島に到着。遭難、行方不明によりほとんどの探検隊を失ったが、最終目的の占守島(しゅむしゃとう)に到着した。しかし翌年、郡司成忠が軍の要請により帰還、白瀬を率いる何人かが残留となった。壊血病やノイローゼなど彼らを襲いまたもや被害を受ける。1895年に救助されたが、日清戦争に従軍できなかったことから白瀬と郡司の仲は悪化した。その後は軍として務め、1909年にアメリカの探検家ロバート・ピアリーの北極点踏破のニュースを聞き、北極を断念、目標を南極点へと変更し、イギリスのロバート・スコットとの競争が行われた。

 南極探検のための費用に困り残金がほとんどなかったため、船は険悪の仲であった郡司に頭を下げ買い取った。改造を施し、東郷平八郎により開南丸と命名された。1910年に出港、1912年初頃に南極大陸に上陸、その地点を開南湾と命名した。南極点到達は断念し、南緯80度西経165度地点まで到達。この地点を大和雪原と命名した。半月で帰還。

 1946年餓死、または腸閉塞により85歳で亡くなった。