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図書館的音楽

作った音楽とか

音楽、映画、小説、イラストなど、鑑賞した作品の感想や考察を個々人がネットを介し発信する国民総評論家時代と言える昨今、

あなたが作り手であるならば、受け手の反応が当然気になり、投稿サイトのコメント欄やSNSをチェックするであろうし、あなたが受け手側であった場合も、好きな作品であれば、他の人がどういう感想を持ち、どう解釈しているのかが気になり、批評などをネットで検索することもあるだろう。

そこでは、あなたが作った作品に意図していなかった感想や考察が寄せられることもあるだろうし、自分の鑑賞した作品において、他の人と自分の解釈、感想が違っていたということもよくあることである。

その辺のことにも触れながら、今回は作品の享受、解釈とはどうあるべきか、正しい解釈とは何かということをあれこれ書き連ねようと思う。


 突然だが、想像して欲しい。あなたは出先で急にトイレがしたくなり、折好く、ちょうど公衆トイレを見つけたとする。

トイレに入ろうとしたその時、自分の入ろうとしたトイレの入り口には赤色でスカートをはいた人間のシルエットが掲げられていることに気づく。

あなたが女性ならばそのまま入るであろうし、男性ならば踵を返し、もう一方のトイレに入るだろう。

言わずもがな、スカートをはいたその赤色のマーク(記号)はそこが女性トイレであること(記号内容)を表している。

このマークは記号と記号内容が排他的に一対一で結びついており、受け手による個人的解釈の介入があってはならない、社会的コードの制約に則った一義的記号である。

つまり、自分は体も心も男だけど今日はメンズスカートを履いているし、ジャケットも赤色でマークのシルエットそっくりだから女性トイレを使ってもオッケイ……などと考え、行動する事は当然、御法度である。

他の道路標識もそうだが、その記号が表すAという情報はA+でもA'でもなく正しくAとして伝達されるように企図された、多義性を許容しない記号である。

では、作品の解釈もそうあるべきであろうか?

作り手が作品(記号)に込めたメッセージ(記号内容)こそが唯一の正解であり、その他の解釈を間違いとするべきであろうか?

作品とは単一メッセージの伝達の道具たるべきであろうか?

受け手の個人的解釈は控えるべきであろうか?

いや、そうは思わない。

それは健全な作り手と受け手の作品的対話を阻害するものになるであろうことは想像に難くない。

美術館に飾られた絵に目を向ける私達。

私達の目はQRコードを読み込む主体のない機械のように、皆が同じメッセージを受け取る……受け取らなければならぬ光景。

まるで受け手である私達も、そして作品も死んでいるようだ。

多様な解釈を内包する作品。

そこから自由にメッセージを汲み取ろうとする鑑賞者。

それこそが生きた作品鑑賞というものだと思う。

かの小説家、ウンベルト・エーコが言うように、芸術作品は本質的に解釈の曖昧さ、多義性を含むものである。

そして彼は受け手を多様な解釈へと誘う、そういった可能性を備えた作品を「開かれた作品」と言った。

「メッセージが多様な方法で理解され、様々な相補的解答を促すその言述がもつ可能性こそ"開かれ"と定義しうる。」ウンベルト・エーコ『開かれた作品』

芸術作品とは作者の世界内で完結、決定されている閉じたものでなく、享受する側の参与により、可逆的に意味が作られていくものであるという主張は幾重にも可能性が重なり合い、箱を開けてみるまでは量子状態が決定されない、シュレディンガーの猫箱……コペンハーゲン解釈的量子論を想起させる。

観測によって量子状態が決まるように、鑑賞によって作品の意味内容は決定され、そこから、A+という解釈をする世界線、A’という解釈をする世界線……というようにエヴェレットの平行世界のような無数の分岐をしていく。

エーコはまた、型破りな前衛作品は意図的な"開かれ"が仕掛けられている動的作品であるとし、途切れたストーリーは可能性の結節点であり、そこから先を再生するのは受け手の役目であると言った。

作り手があえて未完にした部分を受け手が埋めることで作品は真の完成を見る。前衛作品はそのような解釈的対話を追求した創作手法であると、その価値を語った。

芸術作品や前衛作品の鑑賞に限らず、積極的解釈という受け手側の態度は鑑賞をより有意義なものにし、作り手と受け手の作品を通した弁証論的対話は作り手にも相互に良い影響を与える。また、良い作品というものは受け手の中に解釈の種を植え付け、幾重のイメージを芽吹かせてくれるような魅力を持っているものである。


 そもやそも、作品の受け取り方なんてものは、受け手の過去の経験、環境、教養、興味、果ては今の気分など、様々なものに左右され、それが一人ひとり違うとなれば当然、個々で違ったものになってくるはずである。

作り手は基本、整合性、妥当性の許す限り、享受者の主観的に構築された自由で多様な読みを受け入れ、むしろそれを促していくことが創作の醍醐味であると自分は思っているし、実践的に創作にも取り入れている。

「整合性、妥当性の許す限り」というところが注意するべきところである。

自由な解釈という、多様な個人的参与を認めるというのは、なにも勝手気まま、野放図な恣意的解釈を許容するということを含意していない。

作り手側の表現力の欠如から十分に受け手に伝えられていない or 受け手の読解力に問題があって単に言葉の意味を取り違えているという場合は勿論、論外とし、あくまで作り手側が方向付けた道筋に沿っており、その構築された世界内での整合性、妥当性ともに問題のない解釈であること……というのが前提である。

逆に、作った作品に意図しない感想、解釈がつけられて、作り手自身が不本意に思ったとしても、その解釈と作品の間に齟齬、過度な飛躍的帰結がなく、否定する情報が作品内で提示されていないのなら、その解釈をはねのけることは創造主である作り手であろうともできない。

それは作り手自身が作り出した道筋で、その道は知らず知らずのうちに作ってしまっていたけど、こちらが意図していなかったから通らないでと、後から言っても遅い。

解釈の諸可能性を提示したのは誰でもない作り手自身だからだ。

作品の解釈的対話においては作り手と受け手の間に上下関係はない。

作り手側は受け手に音符の書かれた楽譜を渡す。その楽譜を見て受け手が演奏する。

その楽譜には、テンポも、強弱を表す音楽記号も書かれていない。

音を間違えない限り、ゆっくり感傷的に演奏するも、激しく情熱的に演奏するも受け手の自由である。

作品を通じたコミュニケーションとはこうあるべきであり、正解は受け手の数と同じ程に存在しても良い。

 
 では、私達がやってきた国語のテストはどうなのか?

あれは解釈(この場合、作者というよりは出題者)の正解を一つ選ばせるものではないのか?と思う人もいるかも知れない。

しかし、模試などの"傍線部の説明として適切なものを選択肢から選べ"という形式の問題は、本文と整合性の取れていない説明をしている選択肢を消していくことで絞りこむことができるものである。そして、最後に残った選択肢が模試の上での"正解"ではあるのだが、それは可能な解釈の一つに過ぎず、自分の解釈が選択肢にない場合であっても、その解釈が本文の内容と矛盾しないのであれば、それも間違いではない、可能な解釈の一つである。

著者の気持ちなど、本人に確かめないとわからないが、本文との整合性は取れており、間違いとは断定できない、そんな……言うなれば矛盾のない正解群の一つを"正解"としているのである。

中には整合性が保たれている選択肢が複数ある場合もあるが、その場合は普遍的に当てはまるであろう、人間の心理や情動という妥当性を考慮に入れて選ばなければならない。

教師でも塾の講師でもないので詳しい解読方法は知らないが、つまり、言いたいことは、あれは可能性のある解釈を選ぶものであって、絶対的な解釈が一つあり、それを選ばせるものではないということだ。

その証左に、

江國香織さんの「デューク」がセンター試験に出た時、江國さん自身がその想定外の解釈に感心したといった話。

名前は失念したが、自分の著書が入試に使われたときいた作家が自らで問いてみたが、そこそこ間違ったといった話。

文章中の「ヒト」の部分に傍線が引いてあり、ここだけ「人」ではなく表記がカタカナになっているのはなぜかという問題がある入試で出たが、それを見て著者がただの表記ゆれのミスですと言った話など。

こういった話はたまに聞く。

娘曰く(父の言った?)嘘らしいが、火垂るの墓の作者である野坂昭如の娘が、国語の試験に出た「火垂るの墓の作者の気持ちを考えよ」という問題に、父親に聞いた通り「締め切りに追われて必死だった」と答えたらバツだった。

というエピソードもネットでは有名である。

詮ずるに、自分の解釈が作者の意図するものと合致しているだろうか……と不安になる必要など全くないのだ。もっと自由に自信を持って作品を解釈し、自分のものにするべきだ。

優れた批評家が著者が込めた以上の意味内容を文章や映像から見出すように、作り手が込めたであろう意味を追うよりもむしろ、自らで能動的に意味を、解釈を創出し、享受すること、それこそが重要なことだと思う。



その2に続く

「創作活動は誰しもができることではない。

普通の人は創作のために労力や時間をかけたりしない。

あなたのやっていることは実はすごいことなのだから自信を持ってよい。」


そんな言葉を聞いて、確かにその通りだなぁと思い、元気づけられた気持ちになった人……注意したほうが良い。

はじめから創作物ではなく、創作している自分を見てほしいという理由で創作をしているのならそれでいいが、そうでない人にはこの言葉、一考を要するものである。

自分の中に誇れるものはないが、何か自慢はしたいという時、人は誇れるものを探そうと自分の外側にその範囲をどんどん押し広げていく。

親が大企業で働いている、友達に芸能人がいる、自分の住んでいる街は素晴らしい……うんぬんと云った具合に。

創作活動は誰しもができることではないという言葉も同じように、自身の創作内容で誇らず、わざわざ創作活動をしていない人、挫折した人にまで小狡くしれっと比較対象を広げ、活動をしているだけで素晴らしい、それは特別なことだと、選民主義的優越感を醸し出し、生み出したもの、成し得た「行為」よりも、創作者自体の「存在」を称賛する。

作品ではなく作品を作っている自分という「存在」の肯定である。

創作をしていない人からこのような言葉をかけられる分にはよいが、それを間に受けて創作者側が言い出したり、「創作活動している私」をステータスにしだしたりするとろくなことがない。

そこには歪な承認欲求が見え隠れしている。

周りにいないであろうか?創作をやり始め、まがりなりにも作る側にまわった途端、消費するだけのオタクを急に下に見始めたりする人が。

「あそこのアニ研サークルの新歓行ってみたけど、見たアニメや漫画の話をしたり、カラオケやゲームするだけで、クリエイター側の人間いなかったな~」

などと言い放ち、非生産的なサークルに冷たい視線を送ったりする人はいないだろうか?

コミケに一般参加ではなくサークル参加するというだけで優越感に浸っている人はいないだろうか?

(あの暑いまたは寒い外気に耐えながら並ぶ長蛇の人の列を尻目にサークルチケットでほぼ待たずに悠々入場し、一般参加者がいない中、他のサークルと挨拶を交わし、一般入場開始の拍手を皆で行う、あのサークル参加者だけが味わえる高揚感、祝祭性は確かにそんな気持ちを助長させるに十分であるのは分かる)

そしてあなた自身、そういうような痛い人になっていないだろうか?

ラーメンズの片桐さんは高校の頃、クラスで一番絵が上手かったらしい。

美術を学ぶために美大に進学したが、美大のクラスでは周りが自分より上手く、「クラスで一番絵が上手い自分」は一瞬にして崩れ去り、そこからは自分のアイデンティティを探す日々に苦心した……と、そんな事を言っていた。

創作活動は誰しもができることではない~という冒頭の言葉は上辺、温かい励ましの言葉だが、とどのつまり、素人よりは君はすごいよと言っているようなものであり、片桐さんのエピソードで言うところの「高校のクラスで一番絵が上手い自分」をいつまでも無理やりアイデンティティにしているようなもので、なんとも不毛だ。

そうではなく、クオリティはまだまだだが、自分なりの作風を確立出来てきた……というように、創作コミュニティの中でアイデンティティを模索し、そこで自己評価を下し、自信に繋げたほうがはるかに建設的で健全である。

昔、TVのグルメ番組を見ていたら料理を食べたアナウンサーが「美味しいです!家庭では作れない本格的な味です」とシェフに言っているシーンが映った。

シェフは「ありがとうございます」と返していたのだが、内心思ったのだろう、そんなのはあたり前で、家庭で出せるレベルの味なら店なんて出してないと。

口では一応の謝辞を体面上述べているが、どこかそんな不満を押し殺しているかのような、複雑な顔つきだった。

アナウンサーに悪気はなく、格別の美味しさを伝えるため、家庭の味を引き合いに出したのだろうが、比べるべきところはそこではない。

ましてや相手はTV取材が来るようなプロの料理人である。

食べてみると他の店のほうが美味しかったと思ってしまい、褒め言葉を絞り出した結果の感想だった可能性もあるが真意は不明である。

そう、冒頭の言葉は明確に褒めるところがないときにも使えるのだ。

そして、自分の中に誇れるものはないが、何か自慢はしたいという時、人は誇れるものを探そうと自分の外側にその範囲をどんどん押し広げていくと前に述べたが、広げれば広げるだけ自分との関連性は薄くなり、もはや、自分自身の自慢ではなくなる。

自分の住んでいる街は素晴らしいというのは街に住んでいる人、全員が言える。

畢竟、幅広い人に当てはまるような普遍的な励ましには得てして欺瞞が隠れている。

占いのバーナム効果のようなものである。

あなたを上げるふりをして、その実、周りの景色を下げているだけ。

そんなものに騙されてはならない。

とは言うものの、実際、何彼に付け褒められたいし、インスタントに喜びたい。

褒めるところは積極的に探していくべきだし、褒められれば嬉しい。

いい事尽くめでハッピーだ。

ただ、自分が言いたいことは、病気のように健康を欲するのはかえって危ないし、そういう人は多いということ。

価値とは「行為」によって生まれる。

「存在」自体ははじめから真っ白なもので、例えるなら入れ物のようなものであり、そこに「行為」を注ぐ事ではじめて、称賛または非難がなされる。

「行為」よりも、自己実現に向けて邁進する自分という「存在」を過度にアピールし、そのこと自体が自己目的化してしまい、その部分で支持者や承認を得ようとしている人を意識高い系と呼んだり、人を引きつけるものは持っていないが、自分に干渉して欲しい、「存在」を認めて欲しいという人をかまってちゃんと呼んだり
、ネットなどで揶揄される人達に通底するものは「行為」を伴わない、肥大化しすぎた「存在」を褒めて欲しい、認めて欲しいと思う願望である。

だが、「行為」にかかわらず「存在」を好きになることなんて、腹を痛めて生んだ我が子でもあるまいし、それを望むのは甘えである事は容易に想像ができる。

その人が描いた漫画を読んで良かったから、その作者を好きになるというのが自然の流れであるように、あなたは素晴らしい人だと言われるためにはそれ相応の善なる「行為」を以て示さないとならない。

何も注がれていないグラスが出てきても喉は潤わない。

そもやそも……。

「作曲は誰しもができることじゃないすごいことです。多大な労力と時間をかけて曲を作って、upし続けているのは自慢できることですよ」

なんて褒められ方をされたとしても自分の場合、正直ピンとこない。

時間と労力をかけなくては作れるものも作れないし、作品を見てもらうために上げ続けている。それはただの手段である。目的ではない。

それより、ちゃんとあなたの"作品"が良かったですと言ってもらいたいし、こちらも自慢できるような”作品”を作りたい。

「存在」なぞ褒めてくれなくてもいい、一日で作ろうが、二ヶ月かかろうが関係ない、作品を見てもらいたい。

自分という木から生った果実を美味しく食べてもらえたらそれで良い。

木は見えない地面の下に根を生やし、二酸化炭素を葉から吸い、日光を浴びて静かに実を作っている。

主意の早合点故に、筆禍を被るのは避けたいので、最後にもう一度言うが、褒めることそのものや、仕事や学業の忙しい合間を縫って創作している櫛風沐雨の頑張り、そういった美徳を否定しているわけではない。

双方向的なコミュニケーションツールにより、褒められたい病に罹患し、本質を見失っている人に「ご自愛ください」と言いたい。

ただ……ただそれだけ。