図書館的音楽 -3ページ目

図書館的音楽

作った音楽とか

所:牛丼チェーン店。

(店内には客がおらず、男性店員が一人。)
(舞台、上手より男子高校生が入店。)


店員 いらっしゃいませ。
学生 すいません。カバンの忘れ物ありませんでした?
    黒色の小さいやつで中にスマホや財布が入ってて……。
店員 (奥からカバンを持ってくる)こちらでしょうか?
学生 それです!それです!よかった……ありがとうございます!
店員 恐れ入りますが、貴重品の忘れ物をお渡しする際、本人確認が必要となりまして、
    何かご本人様と証明できる物はお持ちですか?
学生 えーと、保険証でいいですか?確かに偽って持っていかれたら困りますしね。
店員 はい、保険証で大丈夫です。
学生 あ……だめだ……保険証は財布の中だった。
店員 顔写真付きの証明書……例えば免許証などは財布にお入れではないですか?
    あれば、そちらで本人確認出来ますが。
学生 入れてはないですね。
店員 大変申し訳ございませんが、本人確認書類がないと当拾得物をお渡しすることができません。
    規則ですので。
学生 そうですか……ちょっと家に連絡してみます。
    親がいれば何らかの証明書を持ってきてもらえると思うので……ってスマホもそっちだった……
    あの……スマホを少しの間使ってもいいですか?
店員 すいません規則ですので、本人確認書類の提示がないうちはお渡しできかねます。
学生 ですよね……ちょっと公衆電話から連絡してきます……って財布もそっちか。
    100円だけでいいんで財布からとってもらうことは?
店員 すいません。規則ですので。
学生 ……じゃあお金を貸してもらえたりなんてできません……よね?
店員 (少し考えた素振りのあと)当店ではツケ払いは禁止となっております。
     となると、それに準じ、お客様にお金を貸す行為も規則違反となりえますのでいたしかねます。
学生 それは、食べてからお金がないことに気づいた場合どうするんですか?
店員 発券機による前払い制なのでそういったことは起こりません。
学生 ああ、そうか。じゃ、じゃあ店の電話を貸していただくことは?
店員 (再び考えた素振りをしたあと)お客様に電話を貸してはいけないという規則は無かったと思います
     ので大丈夫です。
学生 おお。やった!お願いします!

(店員が学生を電話の場所まで誘導する。二人が舞台、下手側に移動。)
(学生が受話器を耳に当て、番号を押すが20秒待った後、受話器を元に戻す。)

学生 家に誰もいませんでした……。それと気づきました……普段、スマホから連絡しているので、
    友人はおろか親の携帯番号も暗記していないということに……。
店員 そうですか。では、ご自宅に一度帰られては?
学生 走っても一時間はかかるので……。今日はこの後、大事な用事があるので間に合いません。
    本当に財布の中の電車の定期券だけでもなんとかなりませんか?
店員 申し訳ないです。規則ですので。
学生 学校に戻って先生を頼るにしても、同じく距離があるんで、財布の中のバスの定期券がない
    と……。
店員 規則ですので。
学生 まだ何も言ってません。
店員 失礼しました。この辺りに知り合いは?
学生 それも今考えてるんですけど、すぐ思い当たらないです。
店員 それは、すいません。いらぬことを訊いてしまいました。
学生 なんで謝るんですか!地元が隣町なだけです!友達はいます!多くはないけど!
店員 そうですか……。
学生 あ、そうだ!!
店員 どうしました?
学生 近くに市役所があるじゃないですか!そこで何らかの証明書を貰ってこればいいのでは!!
    住民票とか!
店員 その証明書を発行してもらうために必要な本人確認書類はどうするんですか?
学生 ……。
店員 手数料もかかりますが?
学生 チッ
店員 今、小さく舌打ちしませんでした?
学生 あーーーこんなに自分が自分であることを証明できないなんて!!もどかしい!安部公房の小説
    にこういうのありそうだ。本当に、まじでなんとかならないですか?このままだとこの後の大事な
    用事に間に合わないんで!!
店員 規則ですので。
学生 (イライラしながら)規則規則っていいかげんにしろよ!遅れたらお前のせいだからな!!
店員 私は規則に従っているまでです。高速道路の通行料が払えず遅刻しても、
    料金所のおじさんが悪いとはならないでしょう?
学生 ていうか、そもそも、忘れ物の引き取りに本人確認書類が必要なら、本人確認書類を忘れたら軽く
    詰むだろ!鍵のかかった宝箱の中に宝箱を開けるための鍵が入っているようなもんだろが!
    どうやってすぐに取り出すんだよ!
店員 それも単に鍵を閉じ込めた人の過失です。
学生 (店員に詰め寄る)うっせー馬鹿!!本人確認なんて名前と生年月日を言うだけで
    十分だろうが!
店員 他者でも簡単に分かる情報になんのセキュリティ性があるんです?
    名前なんて初対面の人にでも教えるでしょうに。生年月日もどうせ祝って欲しさに
    「今日で16歳になりました~」ってSNSで不特定多数に教えてるんでしょう?馬鹿みたいに。
学生 てめえ!言うようになったな!!もう許さねえ!早くカバンを返せ泥棒!

(学生は力ずくで店員を押しのけ、カバンを奪おうとするが、圧倒的な店員の腕力に遮られ、押し返された学生は店内で尻餅をつく。)

学生 なんでそんなにつえーんだよ!!
店員 こうみえて、レスリングやってたんで。先程は売り言葉に買い言葉というか……言い過ぎましたが
    とりあえず落ち着いてください。
学生 落ち着いてられるか!!あーーー!!もう間に合わねーー。

(学生は急に上着とYシャツを脱ぎ、Tシャツ姿になり、脱いだ学生服を店員に投げつける。)

店員 どうしたんですが急に脱いだりして。
学生 もう走って家に証明できるもん取りに帰るんだよ!それ預かっとけ!くそが!!

(学生はそのまま走って舞台上手にて退場。)
(間をおいて上手より、出勤してきた店員2が登場。)

店員2 ちーす!なんかすごい勢いで店から人が飛び出してきたけど、どうしたの?
     てか持ってるその服なに?
店員 それが忘れ物をお客さんが取りに来たんだけど、本人確認できるものがなくて、それで揉めて
    ヒートアップしたお客さんが急に脱ぎだして走って取りに帰る!!って……。
店員2 ん?なんかよくわからないけど。それ学生服ってことは学生さん?
店員 そうらしい。
店員2 てことはあるんじゃないアレ。ほら、その上着の胸ポケット見てみて。
店員 胸ポケット?えーと、あ、あった生徒手帳。
店員2 開けてみて。


「生徒証明書

下記のものは本校の生徒であることを証明する

氏名 〇〇 ×× 」

店員 学生証もってんじゃん



――幕――
前回の続き。

作品という記号に込めた作り手のメッセージ(記号内容)は受け手によって様々に解釈される可能性を持つということ、そして、受け手の積極的な読みの推奨を前回語ったが、具体的に詩的な文章が作り出す曖昧性、多義性というのはどういったものかを最小限の部分だが、簡単に説明しようと思う。

文章には主に"伝達"と"表現"の二つの要素があり、多くの文章はこの両方の要素を書き手が意図した比率で含んでいる。

"伝達"に重きをおいた文と云うと例えば、論文やニュースの記事など、受け手の解釈にばらつきがあってはならない、情報を正しく伝えることを肝心要とした文である。(前回の女性トイレのマークと事情が似ている)

極端な例になるが、

A「おはよう。今日は寒すぎる……雪が降るとは思ってなかった……。」

B「えっ?昨日、天気予報で言ってたじゃん。夜籠もる空が地に白い花を咲かすでしょうって。」

A「あれ、そういう意味かよ!!」

みたいなことにならないように、"伝達"に重きをおいた文というのは、伝達内容に対する志向性から文章は必然的に抽象性、曖昧性を限りなく少なくした明瞭で実用的機能に寄った文となる。

「かなりの積雪量」という定性的な表現はどれくらいが"かなり"なのか、受け手によって捉え方が異なるが、「40cmの積雪量」という定量的な書き方ならば、そのようなことは起こらない。

"伝達"の文章には受け取り方の振れ幅を限りなく少なくすることが求められる。

 もう一つの"表現"に重きをおいた文というのは、美的機能を重視した詩や随筆などが例として挙げられる。

"表現"に重きをおいた文……つまり美的機能の備わった文とは、情報の伝達といった外的な目的でなく、「何のために文章を書いているの?」と問われれば「文章を書くためだ」と答えるような、文章を作ること自体が自己目的化されたメッセージ生成のことであり、所謂、詩的な表現を追求した文である。

それは情報伝達のための手段ではないので、"伝達"を重視した文とは逆に一義的でない、開かれた文章となる。

そこでは言葉は自由に使用され、新たな意味作用が生まれていく。

例えば「私は音楽を作る」という文は、慣用的な正しい日本語である。

もし外国人向けの日本語教材の問題に【私、作る、音楽、は、を】を並べ替えて文を作りましょうという問題があり、そこで学習者が「音楽は私を作る」と解答すると、日本語の先生は主語が「私」で目的語を「音楽」にしてくださいと訂正するはずである。

「音楽は私を作る」という文はこの場合、間違った日本語として処理されるが、

「音楽を通した新たな人との出会い、発見は自分自身を成長させてくれる。

音楽があるからこそ今の自分がある。音楽は私を作っている。」

というコンテクスト(文脈)で使われると、理解可能なメッセージを持った文となる。

単独ではナンセンスと思われるような文章であっても、使い方によっては詩的な表現となりえるのである。

そういった意味では詩作とは既成のコードを越えた新たな言葉の開拓ともいえる。

「美しい太陽が私に語りかけた」

という文は、美しい太陽を見た際に何らかのメッセージを感じたという意味内容としても、また、美しい太陽を美しく眩しい存在(意中の女性など)ととればまた違った意味内容として解釈できる。

前者は字義通りの意味として"太陽"が使われている。これを記号学などでは表示義(デノテーション)と言い、後者の"太陽"を"眩しい存在"とするような、本来の意味から派生した潜在的な意味を共示義(コノテーション)という。

「あいつはコウモリみたいだ」を表示義として取れば、顔がコウモリそっくり、または暗いところが好きなやつだ、という意味である可能性が考えられ、共示義として取るならば、(イソップ寓話のイメージから)八方美人、どっちつかずの人間ととることができる。

比喩として取るか、字義通りに取るかという対立を通して、解釈の可能性は分岐し、広がっていき、選択可能な意味内容を並行的に内包する、豊かな情報量をもった文となるのである。

優れた詩人の作る詩にははっとさせられるような表現が多く、かつ、詩全体と一つ一つの文章が調和しており、受け手の解釈を促すような魅力を備えているものである。


 ここまで書いてきたことをふまえて、最後に少し自分のことを喋ろうと思う。

自分は自分の作った作品の解釈に関することはあまり語りたくない。

個人的解釈を助けるという理由で語句や曲の背景の説明はするが、

基本的にこちらが空けた空白を聴いた人が埋めてほしいと思っている。

自分の作品は「答え」ではなく「問い」にしたいからだ。
 
自分は「恋」という言葉を歌詞で今のところ使ったことがない。

「恋」ではなく「愛」を使うようにしている。

「恋」は男女間の愛という限定的な意味を持つが、愛なら、家族愛、友愛、師弟愛など対象を限定することはないからだ。

抽象的な表現、曖昧さを意図的に含ませることで、意味の重層性、内密性が増し、

聴き手の選択可能性を広げ、解釈を個々に委ねることができる。

そういった意味で解釈に関し、成る丈、こちらが口を挟むことは慎みたいと思っている。

好きに受け取ってもらって結構だし、どんどんイメソンにしてほしい。

そしてもう一つ、作者が自ら作品を語るということは数ある中の"正解"を押し付けてしまう危険性がある。

作品というのは、多くの場合、たとえ解釈が明示的であれ暗黙であれ、潜在的に無限な読みへの可能性が存在している開かれたものであるが、世の中には特権的な解釈というものが事実、存在する。

イソップ寓話のウサギと亀の話を例にとってみると。

あの話から得られる教訓は?と尋ねられると、ウサギ側から考えると「油断、慢心は良くない」、亀側から考えると「歩みは遅くても、小さな積み重ねが結果を生む」といったものを答えるであろうし、実際、絵本や図鑑にもそう説明がされている。そう教えられる。

ここで「生まれ持った能力の差というものは大きく、才能あるものが歩みをとめない限り、凡人は追いつくことができない」、「策を弄することもできず、体力でも劣っているものにできることは奇跡を信じることだけである」などと答えたら、それは一般的な回答から外れ、内容的にも初等教育の場なら、先生は顔をしかめるだろう。

同じく聖書にも一般的に流布している解釈というものが存在し、ヘッセの『デミアン』では学校で習った解釈と違う、異端的な解釈をするデミアンに主人公が憧れるというシーンがあるが、中心的な解釈から外れた受けとり方をするものはアウトサイダーとして扱われる。

ここで先程の話に戻ると、作者自身が明示した解釈というのはこういった特権的地位を占め、その他の解釈を排斥してしまう事になりかねないということだ。

自分の解釈と、作者が開示した解釈が違うものだった時、自分の解釈は間違いだったのか……と思ってしまう人がいるかもしれないし、作者が開示した解釈と違う解釈をしている人に対し、他人が「それは作者(または公式)の解釈じゃないから間違っている」と否定する材料となってしまうのだ。

それは間違いであるというのがここまでの論旨であり、整合性、妥当性のある解釈であるならば、それは保持されてしかるべきで、受け手の中の作品像は守られるべきである。

……とここまで読んでくれた人なら理解してくれるであろうが、しかしながら、作者自らが語る解釈というのは中心となり周縁を排除するリスクを往々にして伴う。

絶対的中心、特権的存在に縛られずに様々な展望を可能にするためにも、自分は作品の解釈を極力、語らない方針を貫いている。

最後にウンベルト・エーコが紹介していたマラルメの言葉を借りて本記事の仕納めとしたい。

「事物を名指すこと、それは詩の楽しみの4分の3を取り去ってしまうことである。詩の楽しみは少しずつ推察していく幸福から成る。即ち、事物を暗示すること……そこにこそ夢がある……」ステファヌ・マラルメ