図書館的音楽 -2ページ目

図書館的音楽

作った音楽とか

登場人物:男、神

所:男の自室。男の他に誰も居ず、独り言を言っている。


男 「ライプニッツという哲学者が言ったらしい、この世界は最善の世界だと。詳しくはよくわからないがこれだけは言える。多分そいつは何もわかっちゃあいない。この世界が最善であるはずがない。もっと良い世界が作れたはずだ。最善ならなぜ人間は争う?馬鹿な人間がこれ程までにいる?今日もバイト先のコンビニには頭の悪いクレーム客が来て最悪だった。もしこの世界を作った神がいて、この世界を最善だと考えているのなら、その神こそが馬鹿なのだ」

??? 「それは聞き捨てならんな」

(初老の男性が登場する)

男 「(驚いた様子で)あなたはだれですか!?一体どこから?」

???「私はこの世界を創造し管理している者……君たちの言葉を借りて便宜的に神と呼んでくれてもいい」

男 「え?神?いきなりそんな事言われてもちょっと信じられません……なにか証拠でも見せてくれるのなら……」

神 「神を試してはならないと君たちが作った聖書に書いてあるだろう?」

男 「聖書は読んだことないです」

神 「そうか、まあ、それはさておき……大丈夫、悪いようにはしないよ。君の前に現れたのは下界調査も兼ねたちょっとした暇つぶしだと思ってくれ。ここであった一連の記憶も最後には消すから君は覚えてはいないだろうけど」

男 「神と会話したなんて周りに言っても狂人扱いされるだけなんで記憶を消されなかったとしても言いませんよ……」

神 「(少し間をおいて)ニーチェって知ってるかい?」

男 「なんですか?藪から棒に、はい、名前くらいは知ってます」

神 「散歩中に天啓を受けてツァラトゥストラを書き上げたってエピソードを知っているか?あれは実際に神とこうして喋った経験からインスピレーションを得て書かれたものなんだ」

男 「神と……つまり、あなたはニーチェと会話したんですか?」

神 「いや、正確には前の神だけど」

男 「前の?あなたではない?」

神 「どういうわけか記憶を全て消さず、一部を残したんだ。個々人への介入の記憶は全て抹消しなければならないのだが、それがバレて左遷された。だから今、自分がこの世界の管理を引き継いでいる」

男 「……ものすごく色々と突っ込みたいんだけどやめておきます。とりあえず僕が信じなければ話が進みそうにないので、あなたが神であるということを一旦信じることにします」

神 「君はなかなかに聡明だね」

男 「本当に聡明なら、冷静にあなたを頭のおかしい不法侵入者として警察に通報してますけどね。で……その神が僕に何のようですか?」

神 「(笑みを浮かべながら)どうやら君は神……ひいてはこの世界に不満を持っているようだね」

男 「(ばつが悪そうに)まあ……、もしかして僕の独り言を聞いて罰を与えに来たとか?」

神 「いやいや、別に怒ったりもしていないよ。君は疑問視していたけど、ある意味においてはこの世界は最善に作られているよ」

男 「本当ですか?この世界が最善?そんなわけない」

神 「なら実際に体験してみるか?ほら、このCDをパソコンに入れてみろ」

男 「(CDを受け取り)なんですかこのCDは?」

神 「私がやっていることを超簡単にエミュレートしたシミュレーションゲームだ」

(二人はPCの前に移動し、男がCDドライブにCDを入れる。読み込み後、タイトルが表示される)

男 「世界ツクール……随分安直な名前ですね……」

神 「名前はテキトウに考えた。世界とついているが宇宙が誕生するところは端折ってある。簡単に言えば惑星で知的生命体を発展させるゲームだ。かなり限定的な世界だが君らにとって世界=地球みたいなものなので分かりやすいだろう。とりあえず、スタートをクリックしてみて」

男 「(スタートをクリックし)色々な項目が画面にでてきましたね、あと、右上にあるこの10000という数字はなんですか?」

神 「そのポイントを色々な項目に振り分けて、最後に実行をクリックするとシミュレーションを走らせることができる。例えばその気象のタグを開いて、(画面を指差す)そこに雨の頻度に関するパラメータがあるだろう?」

男 「はい、現状、数値がゼロですね」

神 「ゼロだと雨はほぼ降らない。なのである程度、持っているポイントを使って数値を上げる必要があるが、恵みの雨とはいえ降りすぎても作物が育たないし、河川が氾濫を起こして文明も育ちにくいだろう」

男 「なるほど、このポイントをいい感じになるように各項目に割り振って、理想の世界を作ればいいのか」

神 「そのとおり。話が早いね。それと、項目によっては雨と逆でポイントを盛ることによって頻度を下げるという場合もあるのでその辺のポイントの振る舞いはその都度、説明を読んで対応してくれ、例えば……」

男 「とりあえず、細かいところはやりながら覚えます。ポイントを割り振って実行を押した後は何をすれば?」

神 「その後は観察しているだけでいい。君の設定した数値を基準に世界が進むから。創造主といえど色々ルールがあって、世界が動き出した後はあまり大きな介入はできないんだよ」

男 「なんか思ってた神様像と全然違うなぁ……色々制約があって……」

神 「もし、今の世界よりも良い世界が出来たら、君を神様にしてやらんでもない」

男 「ホントですか?二言はないですね?今よりも人類が幸せな世界を作ってやりますよ」

神 「ああ、がんばってくれ。一時間したら様子を見に来るから、良い結果を期待しているよ。右クリックでヘルプとアドバイスを見ることもできるから活用したまえ。あと、観察するときは任意の倍速にもできるから。じゃあ」

(神が部屋から退場する)

一時間後

(神が再び登場する)

神 「どうだ、調子は?」

男 「ポイントを各項目に割り振った後、実行して時間経過を観察しているんですが……うーん……」

神 「その様子だと、思うようにいってないみたいだな」

男 「理想の世界を作ろうとすればするほどうまくいかないですね……」

神 「Lのキーを押すとログを見ることができるから、ちょっと見せてくれ」

男 「はい(Lを押す)」

神 「(ゲーム画面を覗き込む)大規模な火山噴火や地震、その他、災害が頻繁に起こっているな……君の作った世界の自然環境はとても不安定だ。もっと安定するようにポイントの割り振りを考えないと」

男 「それは分かっているんですけど、マストだと思う項目が他にあって、できればそっちに回したいので、このポイント配分をベースに色々と試してるんですけど……」

神 「しかし、理想の世界を構築したいなら早急に対応すべきことだと思うけどな。何にポイントを割り振ってるか見せてくれ」

男 「はい」

神 「(画面を一通り眺めた後)見たところ知的生命体のかしこさに関するパラメータに結構なポイントを割り振ってるね」

男 「そうですね。馬鹿な人間がいない世界……すごく生きやすい世界でしょう?この世界の人類の知能指数平均値はかなり高く、品行方正です。科学の発展も早いだろうし、それにより生活も豊かになる。なにより無能なのに態度だけでかい上司も、敬語すら使えない低俗な客もいない世界……素晴らしいじゃないですか」

神 「君の私怨は知らないが、ただ、科学の発展が幸せに直結するとは限らないし、皆が賢くなくても、一部の賢い人間がいれば世界は回り、科学は発展するものだよ」

男 「高度な科学が自然を御してくれると思ったんですが、そもそもこれでは科学が発展する前に自然に潰されてしまいますね……(しぶしぶといった面持ちで)わかりました……背に腹は代えられないのでポイントを減らします」

神 「まだまだポイントが足らないな……どこか削らないと……(再び画面を見ながら)後は……そうだな……知的生命体の友愛度に関するパラメータにもポイントをすごく割いているな」

男 「はい、争いのない世界こそ、良い世界です。僕の作った世界の人々は共に手を取り合って団結し、互いのことを思いやり、戦争もほぼ起きていません」

神 「だが、戦争やテロの比にならないぐらい、天災で人類が命を落としているぞ。気候が変動する規模の火山の大噴火も起きているし……こんな世界では到底暮らせないな」

男 「仕方ないですね……わかりました大幅にポイントを減らして、環境面にあてがいます」

神 「あとここのパラメータも盛りすぎじゃないか?それとここも……」

(数時間の試行錯誤の後)

神 「どうだ?今回はいけそうか?」

男 「はい、何回もリセットしながら細かく調整して地殻、火山、気候の状態……諸々の環境面は比較的安定してきました」

神 「理解が早いな、ログを見ても人類が滅亡に瀕するような大きな問題はなさそうだ」

男 「ただそこに結構ポイントを割いてしまったので、肝心の人類に目を向けると……相変わらず争って、おろかで、今の世界と全く変わらないです」

神 「人類が永住できる星を作るだけで結構コストがかかるからな」

男 「そうですね……悲しいかな人類は低コストでも大局的に何の問題もない」

神 「君の望む高水準な人類は作れそうか?」

男 「いろいろ試しましたがうまくいきませんでした。今のポイント配分が一番良さそうですね……僕が試した中では……」


「"この世界は最善の世界です"」


―幕―
年始にTVでやっていた「天気の子」を観たのだけど、とても良かった。

『僕たちはきっと、大丈夫だ』という最後のシーンの言葉にこの物語の意義が収斂されていてつい目頭が熱くなってしまった。

感動した理由はシンプルで今の自分にぶっ刺さったからであり、この部分に関してはただの自分語りになってしまうだろうし、このシーンが良かったとか、音楽が最高だった!ということを掘り下げて書いても月並みな愚筆に堕すること請け合いなので、割愛して何か違うことでも書きたいと思う。

「天気の子」は君(ヒロイン)と僕(主人公)の関係に世界の危機が絡んでくる所謂、新海監督お得意のセカイ系的な設定が敷かれているが、(セカイ系については「君の名は。」の記事参照)「君の名は。」と違い、異常気象を止めるには陽菜が犠牲になる必要があり、「君」と「世界」の二者択一となっている。

こういった図式はセカイ系につきものの「世界を敵にまわしても君を守る」的な様式美といえるが、二つの非共存的な選択肢が提示された際、それとどう向き合い、どう解決して、どのように物語を畳むのかというところに僕は興味がある。

なので今回は「選択」というテーマを掘り下げていこうと思う。

■選択のパターン

ある非共存的な二つの選択肢に対して「その二つを同時に解決する、より良い第三の選択肢」で解決するパターン。

これはテーゼとアンチテーゼを統一していく(哲学用語でアウフヘーベンとか、止揚と言う)ヘーゲルの弁証法的な考え方といえる。

AもBも受け入れがたい……ならば納得のできるCという選択肢を作り出す、または偶然にそれを手に入れたりする。

この理想を追い求めるパターンはハッピーエンドになるような作品に見られる。

人間の無限的な可能性とシステムの枠を乗り越えていける想像力を僕らに与えてくれる。

細田守監督の「バケモノの子」では育ての親をとるか、生みの親をとるかという二者択一に対し、ファンタジー要素を用いその両方を止揚する形で解決している。

一方で「一挙両得など存在せず、提示されたどちらか一方を選択する」というパターン。

これは有限の選択を主体的に選び取るキルケゴールの考え方といえる。

AもBも完全に納得のできるものではないが、そのどちらかを選ばねばならない。

この場合は誰から見てもハッピーエンドという展開にはなりにくく、何かを得る代わりに何かを失う形になる。前者よりはリアリスティックな印象を受けると思う。

「天気の子」はこちらのパターンといえる。

作中で帆高は陽菜が人柱になり異常気象を止めることを良しとせず、陽菜と生きることを選んだ。

ストーリーには終始、何かから逃げる描写が挟まれていて、それは親であったり、まったくの他人であったり、警察であったり、世界に埋没せぬように反発するようにもがくさまが、逃亡のシーンを介して印象付けられ、帆高は客観的価値ではなく主観的価値に従い、駆動する。(そういえば、最初に帆高が読んでいた「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデン・コールフィールドも社会と距離のある人間であった。)

こういったところも異分子的な価値を苦しみながらでも守り抜き、それこそが真の価値だとするキルケゴールを想像させる。

「決断の瞬間とはひとつの狂気である」とキルケゴールは言ったが、陽菜を救わんと危うく人を殺めかける帆高も傍から見ると狂気そのものである。

物語は帆高が家出をして船に乗っているシーンから始まるが、家出とは子供の特権である。子供にとって家庭、周りの環境は選ぶことが出来ず、生まれた時に既にあるものだからである。自分で作った家庭から逃げ出すのは理想の放棄という誹りを受けてもしかたないが、子供の家出は不条理への抵抗なのである。

■実存主義とは

キルケゴールは実存主義の父であり、「天気の子」にすごく実存主義的なものを感じ取ったので、ここで紙面を割いて実存主義について簡単に説明したい。

何かある対象について詳しく知りたいと思うのならばその対象を観察する必要がある。

天体のこと知るためには様々な惑星を観察し、そのデータを記録するだろう。

そうして得られた観察結果を元に研究を重ね、普遍的な性質や法則などを見つけ出していく。

学問とは個別の事象から本質を探し出す帰納的行為であり、本質を重視する。

哲学もそうした学問的プロセスに基づき、人間の総体の本質というものを追求してきた。

だが、「人間の本質は~」とか「人間とは〇〇な存在である」なんて主語が一々でかくはないか?

人間といえど物と違ってひとりひとり意志を持ち、考え方も異なる。

「女の恋愛は上書き保存、男は名前を付けて保存」、「国民は今の政府に怒っている」という卑近な言葉に対して、いやいや勝手に自分を入れてくれるな、全然、自分に当てはまらないと異を唱えたくなった経験もあるはず。

惑星はある法則に従って動いているが、惑星が意志を持ち、気まぐれに自転の方向を変えたりすることはない。

ただ、人間は違う。人間の法則、公式なんてものがあったとしても、変えることができるはずだ。

私達は意志を持ち、選択ができる「実存」だからだ。("物"に対する存在と区別するため実存と呼ぶ)

人間は雑食であると定義されても、自分は明日から肉しか食べないという選択ができる。

一般的な~とか、普遍的な~といった十把一絡げにまとめた人間像とは無関係に現実の"私にとって"の真理を探求するべきだ……という、これまでの哲学への反発として生まれたのが実存主義である。

実存主義者の中にも、有神論者、無神論者はいるが、ベースには、

「実存は本質に先立つ」という考えがある。

サルトルはそれをペーパーナイフの例で紹介している。

"物"は本質が先で存在はその後である。

紙をすばやく切るものがあったら便利だ……という考えからペーパーナイフが発案され、製造される。

これは"紙を切るためのもの"という本質がまずあり、そこからペーパーナイフが作られる(存在する)ということだ。「本質→存在」

ペーパーナイフくんが「僕は何のために生まれ、なぜ生きているのだろう?」と自問していても、「君は紙を切るために生まれた、それが君の存在理由だよ」と言ってあげることができる。

しかし人間は違う。まず生まれ(実存し)、そこから何のために生きるのか?自分は何者なのか?(本質)を創っていかなければならない。この過程は"物"とは逆である。「実存→本質」

会社の跡取りにするために子供を作ったというように本質が先立って生まれてくる人間もいるかも知れないが、本質を仮構し、予め規定された"他者から望まれた自己"通りに生きていく欺瞞をサルトルは「一指導者の幼年時代」という短編で書いていたりする。

実際、ソクラテス以来の西洋哲学は神は何か目的、考えがあって人を作ったはずだという、人の観念(本質)が先にあり、そこから人間が生まれたという"物"と同じような考え方をしていた。

人間を神の創造物としていたので必然的にそうなる。

こういった「本質が先で実存は後」という考え方は長く継承されていく。

そしてそのような思想は「切れ味のわるいペーパーナイフ=粗悪品」と評価するように、人間もその本質からの一致という観点で評価されることに繋がる。

この人は神の定めた本質通りに生きているから100点、あの人は全然だから10点といったように評価の尺度となる。

生きる目的と評価が明確になって良い世界だと感じるか、つまらない世界だと感じるかは人それぞれだろうが自分は以下に引くシオランと同意見である。

「生に明確な目的を与えてみたまえ。それは直ちに生本来の魅力を失ってしまう」byシオラン『崩壊概論』

■実存は本質に先立つ

「実存は本質に先立つ」と言うのならば人間は本質のない「無」、まっさらな状態で生まれてくることになる。

どういう決断をして、それによって何を成し得て、何を作り出したかという行為を媒介に自己の本質が決定されていくということだ。

行動の中以外に現実はなく、現出していないもの、あなたがどんな可能性を持っているかは価値判断に含めない。

「あなた=あなたの行為の全体」であり、それ以外の何者でもない。

運命の赤い糸で繋がったヒロインとか、英雄になるべく宿命づけられた主人公のような決定論的なものは否定される。

英雄として生まれてくるのではない、人は生まれたあとで英雄になる。「実存は本質に先立つ」からだ。

実存主義の立場からするとSNSのプロフにボカロPと書いてあり、作曲のことを日夜考えていても、一曲も作品を発表していないなら、この人はボカロPではないということになる。ボカロ曲を発表するから、ボカロPなのだ。

同じクラスの〇〇くんのことが好きなんだけど、会ったらつい冷たい態度をとってしまうという場合もその人は実存主義的には冷たい人という評価である。

デレを見せてはじめてツンデレであり、俺には才能があるけど、それを発表する機会に恵まれなかった!など嘆いている輩も同様に才のない人である。

■決断に際し

実存主義について書いたところで、ここでサルトルのエピソードを一つ紹介したい。

サルトルのところにある生徒が相談に来た。その生徒は母と二人で暮らしていて、父は母と仲違いをして出ていき、兄はドイツ軍の攻撃で戦死していた。

彼は自由フランス軍に入り、ドイツ軍に兄の復讐をしたいと思っていた。しかし、そうなると家を出ることになるので、母親を見捨てることになってしまう。

彼は大きな決断を迫られていて、サルトルに相談に来たというわけだ。

軍に身を投じるという公共的行為と、母のもとにいて生活を助けるという個人的行為の選択、これは異常気象を止めるという公共的利益と陽菜と一緒にいたいという個人的利益が天秤に乗せられた「天気の子」の選択と符合する箇所でもある。

そしてサルトルはその生徒に言う。

「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」と……。

一見、回答を放棄したような、無責任な言葉だがそれはどういうことなのか?

大切なものは感情だ。感情の赴くままに行動せよ。母を深く愛していると感じたなら留まればいいし、愛が不十分なら出発するべきだと普通なら考えるだろう。

だが、ある感情の価値とは選択後、その事実によって生じる。

想像してほしい。あなたには二人の異性の幼馴染がいるとする。その二人はあなたのことが大好きで、あなたも同様に二人のことが好きであり、小さい頃から三人で遊んでいた間柄だった。

ある日、突然その二人から同時に結婚を迫られたあなたは困惑する。

どちらか一人を選ぶなんてことは想像したこともなく、二人のことが等しく好きなので決めることなんて到底できないと思った。

複婚を認めている国へ行って国籍を変えるといった弁証法的解決は一切できず、どちらか一人を必ず選ばねばならない。

あなたはあれやこれや考え、悩みに悩んだ末、一人を選んだとする。(この人をA、選ばれなかった人をBと置く)

この事実によってはじめて「Aへの愛>Bへの愛」ということが言えるわけであり、愛の価値が事後的に決定されるのである。

なので、Aに「なぜ私を選んだの?」と質問された時に「君への愛のほうが大きかったからだ」と答えるのは循環論に陥る。

感情の価値が人の為す行為によって決定されるならば、自分の感情に耳を傾け、それに基づいて何かを決定することはできない。

自分の中に自分を導くものはない。そして自分の外にも導くものはない。

キリスト教は隣人を愛せ、犠牲となれと言うが、隣人とは誰なのか?

「天気の子」に当てはめて考えよう。

隣人を陽菜と置くならば、自己を犠牲にして警察に逆らい、犯罪者になってでも人柱になる陽菜を救ったのは正しい行いである。

だが、隣人を異常気象に困る人達と置くならば、陽菜のいない世界を生きるという犠牲を負って、異常気象を止める方が正しい。

イエスはあなたが隣人を決めるのではなく、困っている人がいたら助け、あなたがその人の隣人となるべきであると説くが、非共存的な二者択一の選択肢の前では、必ずこちらがその隣人を決定しなければならない。

宗教や一般道徳も何をすべきかを指示することはできない。

指標があったとしてもその指標がもつ意味を選ぶのはいずれにしても自分自身である。

自分の選択を正当化する理由も逃げ口上もない。拠り所のない自由という刑罰の中で、その決定による責任を受け入れなければならない。

高村光太郎の詩にちょうどこんな言葉がある。

「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」

■目印なき道

指標がないとはなんと残酷なことだろうか。生きる意味、目的も無い。解決への道もない。その上、実存主義は人間の不安や孤独を強調する。

僕らはなんだかよくわからないままこの世界に偶然放り出され、そして数々の決断を迫られる。

時にはあなたとは関係のない問題に不条理に巻き込まれ、強制的に決断を迫られることもあるだろう。

正解がわからなくても、頼りにするものがなくても、僕らは何かを必ず選び取らなくてはならない。

僕らは自由ではあるが、自由を選択しないという自由はない。

「実存は本質に先立つ」ならば、正解がまずあって決断をするのではなく、正解に先立って決断をすることになる。先験的な正解はない。

その決断に対し、ほんとはどちらも選びたくなかったとか、他人に従っただけだとか理由をつけて責任を回避することは許されない。

苦しみと不安の中で、自分の主観で自分の思う最善を判断し、その自分の判断によって生じる責任を受け入れる。

僕らはそのたびに、何かを得て何かを失うだろう。また喜び、そして悲しむだろう。

そういった過程を経てそのような決断をなしつつあるものとして僕らは自分自身の本質を構築していく。

自分の定義は決断のたびに更新される。

だから「あなたは何者ですか?」という問いに今は答えられない。

決断をやめる日、つまり死ぬその時まで、

自分を自分で創っていく。

「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」


■雨の中で

帆高は陽菜を救った、それは彼の生きる意味を創り出す行為でもあった。

その選択を以って彼の愛は創出される。

降り続ける雨は陽菜への愛の証でもあり、同時に彼の決断への責任を忘れさせないための罪の証でもある。

重大な選択とは得てして"それ"を選び取る行為であるとともに"それ"以外を捨てる行為である。そして不可逆である。

過ぎ去って変えられない時間……それが「過去」という言葉の定義なのだから、受け入れるほかない。

決断の前に正解はないのなら決断の後にそれを正解としていくように生きるしかない。

考えなくてはいけないことは、あの時どうすればよかったのか?ではなく、これからどうすればいいのか?なんだと思う。

異常気象もそれが続くならば異常ではなく恒常であり、やがて自然な背景となっていく。

僕が小学生の時、実家のトイレの壁紙を見て空想していたことがある。

その壁紙は大きさも形も違うカラフルな雲のような模様が散りばめられたものだったのだけど、それら一つ一つを見ながら、これは恐竜でこっちは顔のでかいピエロで……と、その形から連想できるものを考える遊びをしていた。

そのため、今でも見ていると乱雑な模様の中に、意味を持ったものが浮かび上がってくる。

一度、そう見えたものは、そのように見え続ける。

ときにはそれが悪さをしたりする。

古い価値観のせいで新しいものに気づけなかったりする。

実存主義は古来の西洋哲学の世界観を転覆させ新たな視野を示した。

しかし、その実存主義も構造主義の台頭によって古いものとなっていく。

既存の価値観をぶっ壊せという言葉は、手垢のついた陳皮な言葉ではあるけど、この言葉が現代まで言い続けられているというのは、つまり、それは翻って人間の順応能力の高さの証左なのかもしれない。

”当たり前”を壊すのは難しいというのは逆に、人間は今を”当たり前”とする能力に長けているということだ。

この形は恐竜に見えると思うと、次の日も乱雑な壁紙の模様の中に恐竜がいた。毎日、違うものに見え続けた、なんてことはない。

人間の認識はカオス的状況にあっても、その環境に適応するための秩序を作り出せるのかもしれない。

想定外の出来事は僕たちを混乱に陥れる。

だけど非日常を日常として、異常を恒常として処理していき、混乱を秩序立てて乗り越えていける力を人間は持っている。

止まない雨はないとか、明けない夜はないという言葉が僕は嫌いだ。

真に希望的な言葉とは思わない。

それは自然の斉一性を信頼した言葉……つまり雨が降ると必ず止むし、夜が来ると必ずまた朝が来る、前もそうだったから……という帰納的かつ受動的な願いである。

世の中、受け身では解決しない問題が沢山ある、例え雨が止まずとも、夜が明けずとも、雨に濡れる覚悟で……暗闇の中、不安と戦いながら……傘を差し、明かりを灯し進んでいける強さ、その覚悟と勇気を持つことこそが希望と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。

キルケゴールは様々な相反する関係に思い悩みながら生きる人間という存在の中に絶望を見出し、その病からの完治を願った。

だがカミュは重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだと言った。

カミュの言う通り、癒えない病の只中でも、僕らはしたたかに生きねばならない。

曇天の空の下でも『僕たちはきっと、大丈夫だ』と願いながら。

さてもかなしい憂鬱と


「この人生から自分を葬り去るのは、人生に毒づく楽しみを捨てることでしかない。これが、この世に"けり"をつけるつもりだと言いに来た人間に、返してやれるたった一つの答えである。」

エミール・シオラン『告白と呪詛』