2024/8塔記事(排斥措置の新見解)に対するロルフ・フルリ氏の解説 | JW 2世の保健室

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教室に行けなくなった人のために

ロルフ・フルリ氏は1941年生まれのノルウェーの言語学者(専門は古代ヘブライ語)であり、ノルウェーでトップのオスロ大学で指導にあたっていた人です。フルリ氏はまた熱心なエホバの証人であり、長年長老の立場にあり、巡回監督等を務めた経験もありました。その当時は"御用学者"的にエホバの証人の教理やありかたを擁護していたようですが、近年の著書(この記事の最初のほうで触れられている)にエホバの証人の統治体に対する批判を書いたため、2020年6月に排斥されました。

 

ここ最近のノルウェーでのエホバの証人に関する物事の進展(若者や排斥者の処遇が違法であるため法的資格取り消し)に尽力・貢献した人の1人です。

 

今回「ものみの塔」誌2024年8月号で、排斥者(会衆から除かれた人)への新たな対応が打ち出されましたが、フルリ氏はその塔記事についての分析と、聖書理解に基づく忌避制度の問題点をまとめた解説を数日前に発表されたので、それを訳出しました。基本的に元記述に即したものとしていますが、理解しやすいように表現やレイアウトにいくらか手を加え整えた箇所もあります。

 

ロルフ・フルリ氏についてのWikipediaページ(英文):

 

 

この翻訳の元解説:

 

 

解説翻訳ここから ***

「ものみの塔」誌2024年8月号の記事の解説

ロルフ・フルリ

2024年7月8日

はじめに

「ものみの塔」2024年8月号では、排斥措置と排斥された人の扱い方に関する新たな見解がいくつか示されています。しかし、この記事が発表される前の手順に比べて、わずかに調整されたにすぎません。

 

私は自著『My Beloved Religion — And The Governing Body私の愛する宗教 ― そして統治体)といくつかの記事で、会衆から人を除く48の理由のうち、37は人の考えによるものであり、聖書的な根拠がないことを論証しました。また、会衆から除かれた人を避ける、つまり彼らと一切接触せず、完全に孤立させるということも、人の考えによるものであり、聖書的な根拠がないことを論証しました。

 

この「ものみの塔」の記事は、罪を犯した人が会衆から除かれないように助けること、また除かれた人が復帰できるように助けることについて前向きな見解が示されています。これは前向きな変化です。

 

会衆から除かれた人々に対する新たな扱い

いくつかの新しい手順は、会衆から除かれた人々の扱いに関連しています。

 

以前の見解では、排斥された人とは誰も接触すべきではありませんでした。会衆の成員はその人にあいさつしたり、話しかけたりもしてはなりませんでした。これは家族の場合も同様で、家族の問題に関連して絶対に必要な場合にのみ、排斥された人と接触することができました。

 

では、会衆から除かれた人々に関する新しい記事の要点を見ていきましょう。「ものみの塔」2024年8月号の27ページ(上)、15ページ(中)、27ページ(下)から引用します。

 

●「ものみの塔」2024年8月号研究記事35 4節

悔い改めようとしない人が会衆から除かれた場合,その人がエホバの証人ではなくなったことが会衆に知らされます。そうするのは,罪を犯した人に恥をかかせるためではありません。会衆の人が,「そのような人とは交友する(※ギリシャ語:synanamignymi、"スナナミグヌミ")のをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません」という聖書の指示に従えるようにするためです。(コリ一 5:9-11)このような指示が与えられていることには,もっともな理由があります。パウロは「少しのパン種が生地全体を発酵させる」と書きました。(コリ一 5:6)...

 

●「ものみの塔」2024年8月号研究記事33 5節

コリント第一 5:13を読む。聖なる力に導かれてパウロは,罪を悔い改めない人を会衆から除くように,という指示を与えました。会衆の人たちはその人にどんな接し方をする必要があったでしょうか。パウロは「そのような人とは交友する(スナナミグヌミ)のをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません」と言いました。(コリ一 5:11)どうしてでしょうか。誰かと一緒に食事をするなら,それがきっかけでその人と親しくなっていくことでしょう。パウロが交友を持たないようにと言ったのは,会衆を悪い影響から守るためでした。...

 

●「ものみの塔」2024年8月号研究記事35 5節

会衆から兄弟か姉妹が除かれた場合,その人のことをどう見るべきでしょうか。交友を持つことはしませんが,救われる見込みがない人とではなく,迷い出た羊と見ます。羊は群れから迷い出たとしても,戻ってくる可能性があります。...

 

会衆から誰かが除かれたなら、そのことは会衆に発表されます。コリント第一5:9の「そのような人とは交友するのをやめなさい」という言葉が引用されていますが、その1つの方法は11節の「そのような人と一緒に食事をしない」ことだとされています。しかし、そのような人は迷い出た羊とみなされるべきです。ここまでの記述はすべて、聖書に直接基づいています。

 

しかし今回、会衆から除かれた人に対する扱いにはいくつかの小さな変更が加えられました。「ものみの塔」2024年8月号の30ページと31ページにはこう書かれています。

 

●「ものみの塔」2024年8月号研究記事35 13節

前の記事で考えたように,誰かが戒めを受けたことが発表される場合があります。そのようなとき,会衆の人はどうしたらよいでしょうか。引き続きその人と交友を持つことができます。その人が悔い改めて間違った行いをやめているということが分かっているからです。(テモ一 5:20)その人は今でも会衆の仲間であり,兄弟姉妹との交友から力をもらう必要があります。(ヘブ 10:24,25)でも,会衆から除かれた人に対しては,接し方を変える必要があります。「そのような人とは交友するのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません」という指示に従います。(コリ一 5:11)

 

●「ものみの塔」2024年8月号研究記事35 14節

この指示は,会衆から除かれた人を完全に無視するように,という意味でしょうか。いいえ,そういうわけではありません。もちろん,その人と交友を持つことはしません。でも,会衆から除かれた人を集会に招待するかどうかは,聖書によって整えられた良心に基づいて,各自で決めることができます。もしかすると,その中には 親族や親しかった人が含まれるかもしれません。では,その人が集会に来た場合はどうしますか。以前はあいさつをすることはありませんでした。でもこの点に関しても,私たち一人一人は聖書によって整えられた良心に基づいて判断する必要があります。中には,集会であいさつしたり歓迎したりする方が心が痛まないと思う人もいるかもしれません。とはいえ,その人と長く会話を続けたり,別の機会に一緒に時間を過ごしたりするようなことはしません。

 

●「ものみの塔」2024年8月号研究記事35 15節

ある人は,「聖書には,あいさつの言葉を掛けるなら悪い行いに加わることになる,と書いてあるじゃないか」と思うかもしれません。(ヨハネ第二 9-11を読む。)でも聖句の文脈を見てみると,この指示は背教者や間違った行いを広めようとしている人たちについて書かれていることが分かります。(啓 2:20)それで,誰かが背教的な教えや間違った行いを広めようとしているなら,長老たちはその人を訪ねることはしません。もちろん,そのような人にも心を入れ替える可能性はあります。でもその人が悔い改めるまでは,私たちの方からあいさつをしたり会衆の集会に誘ったりすることはありません。

 

新しい手順では、会衆の成員は、会衆から除かれた人を集会に招待することができます。そして、その人が集会に来たら、あいさつすることができますしかし、その人が集会に出席しても、長時間の会話は許されていません親族も、そうでない会衆の人たちも区別せず言及されています。つまり、親族であっても、会衆から除かれた人とは、親族でない人よりも長く接触できるというわけではないということです。そのようなわけで、扱いの変更はわずかであり、完全に忌避して孤立させるという従来の手順はそのままです。

 
 

エホバの証人は、会衆から除かれた人を集会に招待できるようになりました。その人が集会に出席する場合、短いあいさつをすることができるようになりました。しかし、会衆から除かれた人と会話をすることは許されていません。

 

会衆から除かれた人に対する扱いは変更されていない

悔い改めない罪人を排斥する措置は1952年に始まり、会衆から除かれた人々を厳格に忌避する措置も直ちに開始されました。忌避は今でも実践されており、エホバの証人の過去のさまざまな出版物に記載されている忌避に関する規定は今でも有効です。

 

統治体は、「ものみの塔」2024年8月号の記事によって、会衆から除かれた人の実際の扱いがどのようなものかを隠そうとしているように思われます。記事で使われている表現は「交友してはならない(should not socialize withです。この表現について成立する唯一の解釈は、「会衆の成員は会衆から除かれた人と一般的な接触を持つことはできるが、社交的(social)な形での接触を持つことは許可されない」ということです。

 

これは、会衆の成員は、会衆から除かれた人々を、一般の人たちと同じように扱うべきであると言っているように受け取れます。一般の人たちに対しては、さまざまな状況で、あいさつしたり、話しかけたり、忠告したり、助けたりできます。しかしもちろん、一般の人たちと食事を共にしたり、その人たちを社交的な集まりに招待したりはしません。

 

その同じ「交友してはならない」という表現を、会衆から除かれた人との関係についても用いることで、その人たちが疎外され、完全に孤立しているという事実が隠蔽され、実際の状況が覆い隠されてしまっています。

 

エホバの証人には、統治体の成員が「ものみの塔」で発表した決定は、その決定を変更する記事が掲載されるまで有効であるという規則があります。「ものみの塔」2024年8月号の記事には、会衆から除かれた人に対する極端な扱い、つまりその人たちを忌避し完全に孤立させるという扱いについての変更は何もありません。唯一の小さな例外として、「会衆の成員はその人たちを集会に招待し、集会に出席したときに短いあいさつができる」ようになりました。

 

 

以下に、忌避と完全な孤立が実際に何を意味するのかを示す引用をいくつか紹介します。

 

会衆から除かれた人の親族でない人への指示

「王国宣教」2002年8月号3ページ

2 追放された人にどのように接しますか: 神の言葉は,クリスチャンが会衆から追放された人と交際や交友を続けないように命じて,こう述べています。だれであれ「兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように……その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」。(コリ一 5:11,13)マタイ 18章17節に記録されている,「[追放された]人を,あなたにとって,諸国民の者また収税人のような者としなさい」というイエスの言葉もこの点に関係しています。イエスの言葉を聞いた人たちは,当時のユダヤ人が異邦人といっさい親交を持たず,収税人を部外者として遠ざけていたことをよく知っていました。それでイエスは追随者たちに,追放された人と交わらないようにと教えていたのです。―「ものみの塔」誌,1981年11月15日号,17-19ページをご覧ください。

 

3 これは,忠節なクリスチャンは,だれであれ会衆から追放された人と霊的な交友を持たない,という意味です。しかし,それ以上のことも関係しています。神の言葉は,「そのような人とは共に食事をすることさえしないように」と述べています。(コリ一 5:11)それでわたしたちは,追放された人との親ぼくのための交友も避けます。それには,その人を加えてピクニックに行ったり,パーティーを開いたり,球技をしたり,ショッピングや劇場に出かけたり,家であれレストランであれ一緒に座って食事をしたりすることも含まれるでしょう。

 

「自分を神の愛のうちに保ちなさい」(2008年)208ページ

徹底的に避けることは本当に必要か。そのとおりです。理由があります。第一に,神とみ言葉に対する忠節がかかっています。わたしたちは,都合の良いときだけでなく,相当な努力を要するときもエホバに従います。神への愛に動かされて,神のおきてすべてに従います。神が公正で愛のある方であり,神の律法は最善の益を生む,ということをわきまえているからです。(イザヤ 48:17。ヨハネ第一 5:3)第二に,悔い改めない悪行者から離れているなら,自分と会衆の他の成員を霊的また道徳的な汚染から保護し,会衆の良い評判を守ることができます。(コリント第一 5:6,7)第三に,聖書の原則を固守するなら,排斥された人にも益が及ぶことがあります。わたしたちが審理委員会の決定を支持するなら,それまで長老たちの援助にこたえ応じていなかった悪行者も心を動かされるかもしれません。愛する人たちとの貴重な交友関係を失うことによって『本心に立ち返り』,自分の悪の重大さを悟り,エホバのもとに戻るための段階を踏むかもしれないのです。―ルカ 15:17。

 

●「ものみの塔」2017年10月号16ページ

19 エホバの取り決めに従う。排斥という神の取り決めは,最初は痛みを生じさせるかもしれません。でも長期的に見ると,排斥された人を含めすべての人に最善の結果をもたらします。(ヘブライ 12:11を読む。)エホバは,悪い行ないを悔い改めない人との「交友をやめ」るよう命じておられます。(コリ一 5:11-13)排斥された家族との交友をやめるのはつらいことです。しかし,電話や手紙やメールやソーシャルメディアで不必要に接触すべきではありません。

 

上記の3つの引用文は、忌避が実際には「完全な孤立」であることを示しています。会衆の成員と除かれた人との間には接触があってはなりません。電話に着信があり、会衆から除かれた人の番号が表示されているなら、忠実なエホバの証人は、それがたとえ家族からかかってきたものであったとしても出ることはしません。

 

自分を神の愛のうちに保ちなさい (2008年)という本では、徹底的に避けることが必要だと述べられています。しかし新しい見解では2つの例外が設けられ、会衆から除かれた人を集会に招待し、その人が集会に来たときには短いあいさつができるようになりました。ただし会衆から除かれた人とのそれ以上の会話は、家族を含め、皆が禁じられています。

 

エホバの証人が会衆から除かれた人にどこかでばったり出会った場合、あいさつをすることはできるでしょうか。ヨハネ第二7-10にある、あいさつを禁じる聖句は、今では偽教師や背教者を指しており、会衆から除かれた人を指しているわけではないと説明されています。したがって、新しい見解では、会衆から除かれた人に短いあいさつをすることはもはや禁じられていません。

 

会衆から除かれた人の親族への指示

親族と親族でない人への指示に違いはありません。ただし、会衆から除かれた人がエホバの証人の家族と同じ家に住んでいる場合は別です。その場合、家族は普通にその人と話しますが、霊的な接触はありません。

 

●「王国宣教」2002年8月号4ページ

9 一緒に住んでいない親族: 「もし排斥された者,あるいは自ら関係を断絶した者が,一緒に暮らしている家族ではなく,別に生活している親族であるなら,事情は異なります」と,「ものみの塔」誌,1988年4月15日号,28ページは述べています。「その親族とはほとんど接触せずにすむかもしれません。たとえ家族の何かの事柄で接触しなければならないとしても……そういうことは最小限に保たれるに違いありません」とも述べています。これは,悔い改めずに罪をおかしている人がいれば,だれであれ『交友をやめる』ようにという神の命令と調和しています。(コリ一 5:11)忠節なクリスチャンはそうした親族との不必要な交わりを避け,仕事上の接触も全く最小限にとどめる努力を払うべきです。―「ものみの塔」誌,1981年11月15日号,28,29ページもご覧ください。

 

●「ものみの塔」2017年10月号16ページ

19 エホバの取り決めに従う。排斥という神の取り決めは,最初は痛みを生じさせるかもしれません。でも長期的に見ると,排斥された人を含めすべての人に最善の結果をもたらします。(ヘブライ 12:11を読む。)エホバは,悪い行ないを悔い改めない人との「交友をやめ」るよう命じておられます。(コリ一 5:11-13)排斥された家族との交友をやめるのはつらいことです。しかし,電話や手紙やメールやソーシャルメディアで不必要に接触すべきではありません。

 

●「自分を神の愛のうちに保ちなさい」(2008年)208、209ページ

親族が排斥された場合はどうか。そのようなとき,家族の緊密な絆のゆえに忠節が大いに試みられます。排斥された親族にどう対応すべきでしょうか。ここですべての状況を取り上げることはできませんが,二つの基本的な状況を考えてみましょう。


排斥された人が依然として同じ家で家族の一員として暮らしている,という場合があります。排斥されても家族の結びつきは断たれないので,家族としての日々の通常の活動や関係は続いてゆくでしょう。しかしその人は,信者である家族との霊的な絆を自らの歩みによって断ち切りました。ですから,家族の忠節な成員はもはやその人と霊的な交わりを持つことができません。例えば,家族が一緒に聖書を研究する時,排斥された人はその場にいてもそれに加わりません。とはいえ,排斥されたのが未成年の子どもであるなら,親は依然としてその子を教え諭したり懲らしめたりする責任を負っています。それゆえ,愛のある親は,その子との聖書研究を取り決めて司会するでしょう。 ―箴言 6:20-22; 29:17。


一方,排斥された親族が同居家族でない場合があります。家族としての必要な事柄を顧みるために限られた範囲で接しなければならないことがまれにあるとしても,そうした接触は最小限にとどめるべきです忠節なクリスチャンである家族の成員は,同居していない排斥された親族とかかわりを持つ口実を探そうとはしません。むしろ,エホバとその組織に対する忠節のゆえに,排斥という聖書的な取り決めを擁護します。そうした忠節な態度は,悪行者にとっての最善を願ってのものであり,受けた懲らしめから悪行者が益を得る助けになるでしょう。 ―ヘブライ 12:11。

 

上記の引用は、同じ世帯に住んでいないのであれば、親族であっても、親族でない人とまったく同じように対応すべきことを示しています。会衆から除かれた人とエホバの証人である親族の間には、電話に出ることも含め、一切の接触があってはなりません。

 

しかし、長年にわたって設けられている1つの例外があります。最後の引用文に茶色の文字で示した部分の「家族としての必要な事柄を顧みるために限られた範囲で接しなければならないことがまれにある」がその例外にあたります。では統治体の言う「家族としての必要な事柄」には、どのような意味があるのでしょうか。

 

●ものみの塔1970年9月15日号 575ページにはこう書かれています。

排斥が血縁関係のきずなを解消するものでないことは,この事態でも同じです。しかし,その場合の接触は,たとえそれが少しでも必要な場合であれ,同じ家族の中の人々同士の場合より,はるかにまれであるはずです。とはいえ,遺言書や財産に関する法的手続きの場合のように,相互の連絡を絶対に必要とする,家族的な問題があるかもしれません。しかしそのような場合には,排斥された親族に,その人の立場が変わったこと,つまり,もはや家で歓迎されることがないし,つき合いも望まれてはいないということを知ってもらわねばなりません。

「絶対に」という言葉が下線で強調されています。この書き方からすると、会衆から除かれた親族との接触はよほどのことがなければほぼあってはならないということであり、これは現在も課されている要求です。

 

「ものみの塔」2024年8月号で表明された誤った見解

誤った見解とは、会衆から除かれた人にあいさつすることに関するものです。

 

ヨハネ第二7-10の新たな理解

この記事では、会衆から除かれた人々へのあいさつについての新しい見解が示されています。ヨハネ第二7-10を引用します。

ヨハネ第二7-10

これらのことを書いているのは,人を欺く者が世の中に大勢現れているからです。彼らは,イエス・キリストが人間として来たことを認めません。人を欺く者であり,反キリストです。 よく気を付けて,私たちが働いて生み出したものを失わないようにし,十分な報いを得られるようにしなさい。 キリストの教えを踏み越え,その教えに従い続けない人は皆,神と結び付いていません。キリストの教えに従い続ける人は,父とも子とも結び付いています。 10 キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。

 

この聖句は、証人たちが排斥された人にあいさつしたり、家に招いたりすることが許されていないことを示すために、1950年代からものみの塔の出版物で用いられてきました。しかし「ものみの塔」2024年8月号では、これは誤った理解であったとしており、正しい理解について29ページで次のように述べています。

●「ものみの塔」2024年8月号 研究記事35「ヨハネとパウロは同じ罪について書いていましたか」の囲み

 

では,ヨハネとパウロはそれぞれどんな罪について書いたのでしょうか。パウロは,性的不道徳の罪を犯した人について書きました。それから43年後にヨハネが書いたのは,背教者や間違った教えや行いを広めている人たちについてでした。その中には,イエスはキリストではないと教える人たちがいました。(ヨハ一 2:22; 4:2,3)

ヨハネが手紙を書いた時,背教はすでに広がっていました。ヨハネはそれを完全に封じ込めることはできないと分かっていましたが,背教に対する「抑制力」として会衆を守るためにできる限りのことを行いました。(テサ二 2:7)

それでヨハネは,間違った教えを広めようとする人たちにだまされないように警告を与えました。そうした人を家に招いたり,あいさつしたりしないようにと指示しました...

 

一方で,パウロがコリント第一 5章で書いていたのは,性的不道徳のために会衆から除かれた人についてでした。その人は背教者だったわけでも,神の基準を破るようほかの人をそそのかしていたわけでもなかったようです。(啓示 2:20と比較。)パウロは会衆の人たちに,その人と交友するのをやめ,一緒に食事をすることもしないようにと書きましたが,簡単なあいさつをしてはいけないと言っていたわけではありません。

 

ヨハネ第二の聖句が会衆から除かれた人には当てはまらないというのは正しい説明です。しかし、「ヨハネが書いたのは,背教者や間違った教えや行いを広めている人たちについてでした」という言葉は真実ではありません。文脈から、ヨハネの言葉はただ1つのグループ、「反キリスト」、つまり「イエス・キリストが人間として来たことを認め」ない人々に向けられていることがわかります。

 

エホバの証人の公式サイトのオンライン記事「聖書Q&A」の「キリストの到来とは何のことですか」の記事には、反キリストとはグノーシス派のことであり、クリスチャン会衆から脱退したり排除されたりしたクリスチャンのことだとは書かれていません。「グノーシス派」というのは「クリスチャン」とは異なる1つの宗派でした。

 

統治体は、この「反キリストとは背教者のことである」という定義を用い、会衆から除かれた人々をさらに2つのグループ("背教者"と呼び得る人と、そうでない人)に分けています。そして統治体が"背教者"と定義する側のグループには、あいさつをすることが許可されていません。

 

これもまた、統治体の成員による、聖書の本文から読み取れない解釈の1つの例となっています。[1]

 

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注記:ここで以下に、フルリ氏が言及している「聖書Q&A」の「キリストの到来とは何のことですか」の記事を参照用に引用し、要点を簡単にまとめます。

キリストの到来についてのよくある誤解

誤解: ヨハネ第二 7節は,イエスが肉体で来られることを示している。

事実: その聖句はこうなっています。「欺く者が多く世に出たからです。すなわち,イエス・キリストが肉体で来られたことを告白しない者たちです」。

使徒ヨハネが生きていた当時,イエスが肉体を持つ人間として来られたことを否定する人たちがいました。グノーシス派と呼ばれた人たちです。ヨハネ第二 7節は,その人たちの主張が誤りであることを証明するために書かれました。

 

 

 

論点を簡潔にまとめると:

 

●ヨハネ第二7-10の「反キリスト」は本来、当時のグノーシス派を指すものであって、会衆から除かれた人を指していたわけではない。つまりそのような人にあいさつせず、徹底して無視することの根拠にはなり得ない。

 

●新しい理解では、会衆から除かれた人には簡単なあいさつができ、背教的な人には引き続きあいさつせず無視をすることになっているが、この"グループ分け"も聖書的な根拠はない。

 

注記終わり

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会衆から除かれた人に対する忌避は継続されている

重要な点ですが、ギリシャ語の「スナナミグヌミという語は、会衆から除かれた人へのエホバの証人の忌避が間違っていることを示しています。

 

この語はクリスチャン・ギリシャ語聖書の中で3回しか使われていません。以下に引用するのはコリント第一5:9-11(上)とテサロニケ第二3:14, 15節(下)です。

●コリント第一 5:9-11  私は皆さんへの手紙の中で,性的に不道徳な人と接する(スナナミグヌミのをやめるようにと書きました。 10  それは,この世の性的に不道徳な人や,貪欲な人,脅し取る人,偶像を崇拝する人と全く接しないようにという意味ではありません。もしそうだとすると,皆さんは世から出なければならないことになります。 11 それで,私は今こう書きます。兄弟と呼ばれる人で,性的に不道徳な人,貪欲な人,偶像を崇拝する人,ののしる人,酩酊する人,脅し取る人がいれば,そのような人とは接する(スナナミグヌミのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません。

 

●テサロニケ第二 3:14, 15 14  もし,この手紙で私たちが述べていることに従わない人がいれば,その人に特に注意し,交友(スナナミグヌミを持つのをやめなさい。そうすれば,その人は恥じるようになるでしょう。 15 それでも,その人を敵と見なすのではなく,兄弟として訓戒し続けてください。

 

ギリシャ語の「スナナミグヌミ」に関して、統治体は読者を次の2つの仕方で欺いています。

 

1) コリント第一5:9と11の「接するのをやめなさい」と、テサロニケ第二3:14の「交友をやめなさい」は両方とも「スナナミグヌミ」から翻訳されたもので、同じ意味であるに違いないのに、そのように教えていないことと

 

2)スナナミグヌミ」のそれぞれの適用ケースを大きく異なる仕方で説明していることです。

 

会衆から除かれた人の扱いについては、「ものみの塔」2024年8月号の15ページから引用します。また、「特に注意する人」の扱いについては、7ページから引用します。

 

「ものみの塔」2024年8月号15ページ

5 コリント第一 5:13を読む。聖なる力に導かれてパウロは,罪を悔い改めない人を会衆から除くように,という指示を与えました。会衆の人たちはその人にどんな接し方をする必要があったでしょうか。パウロは「そのような人とは交友するのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません」と言いました。(コリ一 5:11)どうしてでしょうか。誰かと一緒に食事をするなら,それがきっかけでその人と親しくなっていくことでしょう。パウロが交友を持たないようにと言ったのは,会衆を悪い影響から守るためでした。(コリ一 5:5-7)これは*罪を犯した本人のためにもなりました。その人は,エホバをどれほど傷つけてしまったかに気付いて深く悲しみ,悔い改めるように心を動かされたかもしれません。

 

(* 日本語「これは」の部分は英文「塔」では"their avoiding close contact with the man"、「その人と親しく接触をすることを避ける」という表現が入っていますが、日本語版では訳から省略されています

 

「ものみの塔」2024年8月号7ページ「読者からの質問」

パウロは,「その人に特に注意し……なさい」と言いました。ここで使われているギリシャ語には,そうした人を見分けて悪い影響を受けないようにするという考えが含まれています。パウロはこの指示を長老たちだけではなく,会衆の全ての人に与えていました。(テサ二 1:1; 3:6)それで,聖書の教えに従っていない兄弟姉妹がいることに気付いた場合,秩序を乱すそうした人と「交友を持つのをやめ」るかどうかを一人一人のクリスチャンが判断します。

これは会衆から除かれた人に対するのと同じように接するということでしょうか。そうではありません。パウロは「その人を……兄弟として訓戒し続けてください」と言いました。それで,それぞれのクリスチャンは引き続きその人と一緒に集会や伝道を楽しむことができるかもしれません。でも,レクリエーションなどのために一緒に時間を過ごすことはしないでしょう。

 

ギリシャ語の「synanamignymi:スナナミグヌミ」には「混ぜ合わせる」という基本的な意味があり、クリスチャン・ギリシャ語聖書で用いられる場合には、UBS辞書によれば「付き合う、関わりを持つ、取引をする」といった意味になります。この語の扱いにおいて統治体がどのように状況を混乱させているかを見るのは興味深いことです。上の記述では、ギリシャ語の「スナナミグヌミ」は、会衆から除かれた人と"特に注意すべき人"の両方の扱いに関連して用いられています。統治体は、この語についての聖書に従った定義を受け入れるのではなく、言語的な証拠も示さないまま、このギリシャ語が2つの場面で異なる意味を持っていると見なしています。

 

パウロの言葉から「"スナナミグヌミ"をしない」(「交友しない」)がどのように定義できるかを考察してみましょう。コリント第一5:11によると、「交友しない」という語の1つの意味は、その人と食事を共にしないことです。これはテサロニケ第二3:14の"特に注意すべき人"にも当てはまるでしょうか。はい、疑いの余地なく、両方の箇所で同じギリシャ語が用いられており、誰かと食事をすることは交友の最も一般的な方法の1つです。

 

パウロのテサロニケ第二3:15の言葉からは別の新しい定義を知ることができます。その聖句には「敵と見なすのではなく,兄弟として訓戒し続けてください」とあります。これはつまり、会衆の成員が、"特に注意すべき人"に対してあいさつし、その人と話し、神の原則に従うようにその人を訓戒できることを意味しています。しかしそのようにしたとしても「"スナナミグヌミ"をしない」、つまり「その人との交友をやめなさい」というパウロの戒めに違反することにはなりません。[2]

 

しかし、「兄弟として訓戒する」という表現はどうでしょうか。それは会衆から除かれた人に当てはまるのでしょうか。もちろんです。クリスチャンは、会衆内の兄弟姉妹を扱うのと同じように、すべての人を愛と共感を持って扱います。そして、「ものみの塔」2024年8月号でさえ、会衆から除かれた人を扱うこの方法に同意しており、27ページにはこう書かれています。

●「ものみの塔」2024年8月号 研究記事35

5 会衆から兄弟か姉妹が除かれた場合,その人のことをどう見るべきでしょうか。交友を持つことはしませんが,救われる見込みがない人とではなく,迷い出た羊と見ます。羊は群れから迷い出たとしても,戻ってくる可能性があります...

 

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注記:上記論議を簡潔にまとめると

 

●会衆から除かれた人と「接しない」(コリ一5:9,11)

●"特に注意する人"と「交友しない」(テサ二3:14)

 

にはどちらも同じギリシャ語(スナナミグヌミ)が用いられているのに、エホバの証人は上の聖句については完全忌避を求め、下の聖句については社交レベルの交友を避けるだけでよいとしている矛盾がある。

 

注記終わり

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パウロによれば、「"スナナミグヌミ"をしない」ということは「交友しない」ことを意味し、それには一緒に食事をしないといった事柄が含まれます。

 

ただしクリスチャンは、「交友しない」人に対しても、あいさつをし、話しかけ、訓戒し、兄弟姉妹と同じように接することができます。

 

会衆から除かれた人々を忌避するという要求は、エホバの証人の指導者によって考え出されたもので、聖書的な裏付けはまったくありません。

 

ある人と「交友しない」ことの目的は、テサロニケ第二3:14によると「その人(が)恥じるようになる」ことにあります。しかし人を忌避するということは、その人を完全に孤立させるということであり、残酷で愛のない行為です。忌避するということは人に極度の圧力をかけることであり、エホバ神が地上の息子や娘たちを扱う方法ではありません。パウロがローマ2:4で述べているように、人を悔い改めに導くのは、極度の圧力ではなく「神の温情」です。

 

[1]「The Witnesses are hoodwinked by the application of 1 Corinthians 5:11 and 2 John 7-11(証人たちはコリント第一5:11とヨハネ第二7-11の適用により欺かれている」と「Stop keeping company with’ (1 Corinthians 5:11)(『そのような人との付き合いをやめなさい』(コリント第一5:11))」という記事を参照。

 

[2]「Shunning disfellowshipped and disassociated persons has no support in the Bible(排斥された人や関係を断絶した人を忌避することは聖書的な根拠がない)」および「Shunning — The ultimate failure(忌避-究極の失敗)」の記事を参照

 

結論

長老たちが重大な罪を犯した人々をどう扱うべきかに関して、いくつかの手順が新しくなりました。これらの手順の目的は、罪を犯した人が悔い改めるのを助け、会衆から除かれないようにすることです。

 

会衆の成員は、新しい手順として、会衆から除かれた人に会ったときに短いあいさつができ、その人を集会に来るように招待することができ、集会に来たときにはあいさつできるようになりました。しかし会話することはできません。

 

会衆から除かれた人を忌避するという取り決めに変更はありません。

 

 

ロルフ・フルリ

著者ロルフ・フルリ

*** 記事ここまで

 

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参考:ギリシャ語:synanamignymi の発音についての短い動画。