6月6日:あの日から 34 年 | JW 2世の保健室

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教室に行けなくなった人のために

Wikipedia 「6 月 6 日

  • 1985年 - 川崎市で、交通事故で大けがをした小学生が、エホバの証人信徒の両親が信仰上の理由で輸血を拒否したため、出血多量で死亡。

 

目ざめよ!1986年1月8日号:

「血に関する神の律法に敬意を示す ― 日本からの報告」
日本を騒然とさせた事件

1985年6月6日の午後4時35分ごろ,10歳の鈴木大君は自転車に乗っていました。エホバの証人の地元の王国会館で開かれる神権宣教学校で初めて行なう話の練習に行く途中でした。大君は,大きなダンプカーとガードレールの間に立って信号を待っていました。信号が青になったので自転車をこぎ始めましたが,その時にトラックの大きな後輪に接触して転倒し,両足を骨折しました。傷口からは多量の出血がありました。近くの病院に運ばれてから5時間後に大君はそのけがのため死亡しました。
 

この出来事は全国的なニュースとなりました。報道価値があったのは,両親が輸血を拒んだからです。大君の父親はエホバの証人と聖書を研究しており,母親はすでにバプテスマを受けたエホバの証人です。両親は宗教的な理由から,輸血の許可を求める病院側の訴えを退けました。輸血謝絶書には拇印も押してありました。拇印は,正式の印鑑が手元にない時でも法的な拘束力を持ちます。両親は聖書に従うのは正しいと考えました。神は聖書の中で終始一貫してご自分の僕たちに『血を避けなさい』と命令しておられるのです。
 

日本の三大全国紙,それに有力な地方新聞もこの事件について長い記事を掲載しました。テレビとラジオのニュースでも広く伝えられました。このように報道機関は一般大衆の感情に強力に訴えかけ,そうした感情論が支配する場合の例にもれず,かなり事実を歪曲しました。記事の中には,明らかに挑発的なものも少なくありませんでした。
 

しかし,一人の評論家は,日本人は鈴木さん家族が示したような強い宗教的確信によって物事を律することに慣れていないことを認めました。そして,『もし輸血を強制的に行ない,患者が生き延びたとしても,両親と患者は,死ぬ結果になった場合よりも大きな苦痛を味わうことになろう』と述べました。この点に基づきこの評論家は,他人の信仰を裁くことは決してできないと考えました。
 

日本のテレビ局はこの問題について騒ぎ立て,感情的な偏見をあおりました。しかし,鈴木さん家族の見地からすれば,聖書の神の明確な指示に従うのは重要なことでした。ですから,愛情深い,神を恐れる両親は,『血を避けなさい』という聖書の命令に従いました。(使徒 15:20,29; 21:25)血を避けるべきことが「使徒たちの活動」の書の三つの別々の聖句で強調され,しかもそれが偶像礼拝や淫行を避けることと並記されているということは,創造者がこの問題をどれほど重要視しておられるかを物語っています。
 

まれなことながら,忠実なクリスチャンが輸血を拒んで死亡するような場合でも,その人は神の約束により,神のご予定の時に確かに復活させられます。大君の両親も,マルタが自分の兄弟ラザロについて述べたように,「彼が終わりの日の復活の際によみがえることは知っております」と確信をもって言うことができます。―ヨハネ 11:24; 5:28,29。
 

エホバの証人にとってこの問題は全く宗教的な問題です。確かに,多くの場合,輸血を拒否するほうが輸血を受け入れるよりも危険が少ないと論じることができるかもしれません。というのは,そのようにすればエイズや肝炎のような,輸血によって感染する重い病気にかからずにすむからです。しかし,神の言葉に従うクリスチャンにとって,それは二次的な問題です。主要な関心事となっているのは,永遠の命を与えることもおできになる,命の授与者エホバ神に対し従順を示し,その好意を受け続けることです。―詩編 36:9。ローマ 2:6,7。
 

忠節なクリスチャンが,『血を避けていなさい』という聖書の禁令に従うためにはある程度の犠牲が求められるかもしれません。それでも,多くの社会で自己犠牲は一つの徳として認められており,創造者に従うがゆえの自己犠牲は,確かに創造者からの是認のほほえみをもたらします。―ルカ 9:23,24。
 

鈴木さん家族は,関係する諸原則を理解しない人々からの感情的な圧力にもかかわらず,全能の神に対する従順を示し,聖書の指示に堅く従うことを選びました。(使徒 5:29)「すべての慰めの神」が,忠誠を保つこの家族を養い続け,復活という大きな祝福をこの家族に与えてくださいますように。―コリント第二 1:3,4。

事件から数か月経って出された「目」記事を全文引用。事実説明にも死を悼む言葉にもなっておらず、「鈴木大ちゃんの死の正当化」と「マスコミ批判」に終始しており、事件に直接関わった関係者の悲しみや苦悩やいらだちには驚くほど配慮がありません。

 

マスコミが「感情的で、事実を歪曲し、挑発的であり、騒ぎ立て、偏見をあおった」と書いていますが、どう客観的に伝えようと人の感情や倫理観を逆撫でする出来事であったわけで、報道の仕方に問題があったなどという釈明にはほとんど意味がありません。

 

今や10才前後の子どもが同じ状況に陥り必要と判断されればすぐに裁判所命令で親の親権は停止され、医療関係者は躊躇することなく治療を続行できるようになっています。ただし日本にはすでにその「恩恵」を受けるJWの子どもそのものがほとんどと言っていいほどいなくなっています。

 

時間が経ち日本のJWは当時の勢いを失い記憶を継ぐ人も先細りとなっており、思い起こす人がいるとしてもその名前と死は「忠誠の記録」などではなく「カルト宗教に振り回された悲しい犠牲者」という意味合いになることは間違いなく、「永遠の10才」の子どもにとってはあまりにあわれな墓碑銘でしょう。

 

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