あらゆる公共的立候補において、自己の名を平仮名、又は自己の氏を平仮名で、

明示する淫乱な者を信頼してはならない。

つまり親族等に与えられしものを、自己の立場確立のために捨てるような、

浅薄な者であることに気付かねばならないのだ。

 

醜さは快楽になり得る。例えば肛門。

 

食事をしながら、何か他事をする時から人間は堕落する。

多くの外食産業は音楽を流しており、

それは人間の堕落を誘発するのだ。

 

堕落とは無意識の中で伝染してゆく、その形成下の中の粗雑さを意味する。

 

食事を侮る人間は、身内の人間を侮るようになる。

 

貴方が好む異性が、貴方を大事にずっとしてくれるかは、

貴方の好む異性が、親や親族を貴方との関係がまだ薄い中で、

大事にしているかどうかにある。

 

自分を大事にできぬ者が、他人を大事にすることはできず、

自分の親や親族を大事にできぬ者は、社会貢献などできないのであって、

それは当然に”感じ”なければならない。知るのではないのだ。

つまり、本能、本能への畏敬が大事なのだ。

 

人間の全体、組織、それは縦の人間関係が正しい。

親が黒と言ったら黒。それを基礎としなければならない。

そうであっても、それを超える人間は、いかな罰があっても、

自分の情熱の中、それを破らざる得ぬ時がある。

 

任侠とは守るべき自我の誇りのために、

それを形成している全体、親へと喜んで犠牲になる行動である。

 

現代の軟弱な善より、硬派な悪が良い場合は、

この現代だからこそ多々見受けられる。

つまり乱暴、乱雑、粗野が一個の創造する力を発揮するのだ。

 

叡智でさえ、お上品な香水の中で窒息する。

 

 

 

 

感受性と叡智は共存し得ない。だが双方は双方の相手方を母とする一個の犠牲である。

 

泣いても仕方がない。だが笑っても仕方がないということは現実である。

 

笑顔でいることは間違いである。笑顔はこぼれるものであって、

始まりではないし、継続的な力でもない。それは刹那の美の後の安堵である。

 

笑顔は美ではない。それは幸福の結果であって、美を追求するならば、

笑わない美しい女性を見れば、自ずと答えが出る。笑顔とは顔の皺なのだ。

 

貴方が幸福を感じたいならば、貴方は豚でなければならない。

そしてそれは豚の特権であって、そこに羞恥や敵対感情を意識させず満喫させるところに、

莫大な経済は生まれる。

 

経済は哲学というより、むしろ神学に近い。

私が知る限り、経済の成功者の著書や伝記からは、一人も賢い哲学を有する者はいない。

それはあまりに形而上的滑稽さが、哲学的著書や伝記より多いのである。

 

素直な人間が好まれるのは、

他人がその人間を使いやすいということを、多くの理由とする。

 

他人のために生きる人間とは、自己防備を第一とする人間である。

人間の自我と虚栄は、そこまで狡猾であり又は偽善から主張し得るのである。

 

誰かのせいにするのは醜く、自分のせいにするのはあまりに容易い。

 

他人を責めて生まれるのは敵意であり、自己を責めて生まれるのは虚無である。

一番危険なのは、虚無そのものではなく、その虚無を他人に広めることである。

 

上を向いて歩くより、下を向いて歩いた方が有益である。

天空そのものに存立している建築はない。

それは常に大地の基礎から発している。

 

私は賢くありたいと想い、それに努める。

つまり私は愚かでなければ、それを自己に立証できないのだ。

そして立証から感知される叡智に、

私は依存してはならず、又は感知してはならない。

 

 

 

 

お願いですから来ないでください
私はずっと待ってます
我は鳥なり獣なり
だから人だと言うんです

花瓶はあるが 花がない
花より団子で 花瓶がない
僕の部屋には傘がない
愛しい愛しい バラ色の薔薇

迷子の迷子の子猫ちゃん
あなたのおうちはここですよ
犬のおまわり困ってしまって
ワンワンワンと泣くんです

一から十まで数えてみたが
十から一まで戻れない
さらば友よ 惜別の時
桜舞い散るバラ色の薔薇

今日僕は商店街で
透明な薔薇を買いました
お願いですから来ないでください
私はずっと待ってます
花瓶に咲いてる薔薇の花
愛しい愛しい バラ色の薔薇
耳を澄ませば聞こえてくるね
互いの鼓動に雨の旋律
窓を閉じて さあ目を閉じて
二人で煙草に火をつけよう

煙草を吸おう 煙草を吸おう
煙草をを吸わなきゃ 意味がねえ
煙草を吸おう 煙草を吸おう
闇の中で まず一服

歯磨き無用 香水無能
君の吐息を見つめれば
煙がしみて 目が痛てえ
だから煙はキスの中

煙草を吸えば 煙草を吸えば
二人仲良く 納税者
煙草を吸おう 煙草を吸おう
節税するなら煙草買え

神様神様神様
天国なんてないけれど
地獄はちゃんとあるのです

煙草がねえよ 煙草がねえよ
この世はまさしく生き地獄
煙草を吸って 煙草を吸って
二人で仲良く生きていこう
煙草を吸おう 煙草を吸おう
ロマンはいつでも煙草から
煙草を吸おう 煙草を吸おう
煙の中が 天国さ

タイトルは弟子にキリストが言った言葉である。

ただ弟子という概念自体、キリストにとって、同志にすぎなかったのではないだろうか?

すなわちこんにち、それはキリスト主体の言葉に聞こえるが、

「私の事など知るはずもない」という、

弟子が主体になった、逆説的自己暗示の言葉ではないだろうか?

キリストは弟子より、無名であり、見つけられなかったという・・・。

しかし、我々は福音書を読む時、

あまりにもあまりにもキリストを、華々しくとらえすぎるのである。

なんらかの特徴ある主人公と、なんらかの特殊性あるドラマであると。

この点の婉曲な小説の表現は、カラマーゾフの兄弟の、最初さえ読めば、表されているのである。

すなわち彼も、あまりに見つけづらい、キリストだったのである。

宗教でないキリスト。

力にならぬキリスト。

動かさないキリスト。

ただただ己の感じる内なる光に生きるキリスト。

それは全ての人間であり、全ての平和である。

ここからいかなる事も、発動しないし、

いかなる現代も否定する、材料、きっかけになりはしない。

私はこの記事の題名の言葉を、いかなる攻撃にも感じない。

弟子達にはなんの罪もない。もちろんキリストにも。

ただ、せつない一人間の事実の独白、

通例な言葉に聞こえるのだ。

「あなたは私を三度知らないと言うだろう」

「私もまた、あなたを三度知らないと言うだろう」

キリスト、それは一民衆、

私自身であると、

私は感じ、私は心の内なる光に従ってゆく。

神、神の子、人の子、

全てに隔たりはなく、

そして、それら全て尊い存在。

全て心の光の一部であると、

日々の細やかな瞬間に見つけて。




五体満足で、親から生をもらい、
己が精神病だの、己の生きる障害がそれと思うなら、
ふだん目を見て人と話しにくい私でも、
その人達の目を真っ直ぐに見て言える。

「死ね」

あのな。
弱者主張や、政治の主流によ、
人の人情持ち込んじゃいかんよ。
流行にすぎんものを、
人間の本質にすり替えようとしちゃいかんよ。
弱者は消え、貧乏人は消え、
病人は控え生きなきゃいけない。
自然だろ。
なにがありのままや自然、自分らしさなんだ。
逆手に取った、
愛情のぶち壊しなんだよ。

はっきり言ってやろう。
まずは受験戦争に負けた人間は敗者。
最低でも管理職じゃない人は、
今はまだ敗者なんだよ。
なに心を、感動、そこからくる数にもたれてるんだ。
人を使う、人の上、今だけじゃなく、
ずっと昔から憎まれる対象で、
責任負ってんだよ。
数も使ったこと無い人間が、
金によって支配したことない人間が、
何、自由ってまどわしてるんだ?

不可能と熱意、混ぜちゃいかんよ。
「自分はこれが出来なかったから、頑張りたい!」
何言ってんだ?
出来なかったことに、言葉重ねてやろうとしても、
お前の子どももできんよ。
おまえにその熱情がなかったんだから。

政治うんぬんほんとに思ってるなら、
せめて結果どうあれ、場所どうあれ、政の中の職であれ、
立候補してから言えよ。。
もし違うとしても、お前、その立候補支えて、街中回ったり、
来る人の接待したり、現先生でも嘘でもあいさつ回りしたの?
一所懸命がんばっても、大金はたいても、
それでも落ちてしまう人いるんだよ。
何、たかだかニュース見て言ってんだ。

弱さを武器、病気を武器、
意識してなくても、その表した文がみっともない。
芸術家はそういう奴が多いし、ある種、芸術家として俗者ではない。
ただ一般の何も作らない人達が、
流通においてそうし始めるように願って、技巧をこめるなら、クズだ。
作品作ってる俗者じゃない奴、そこんとこの兼ね合いに苦悩をもて。
表現するのはそこだ。
政治家だってこの先、自分が弱者、病気だってことを、武器にし始めるぜ!
間違いねーよ。

なんかよ、最近思うんだ。
たとえば給料でも、幹部はこう割り当ててるとか、
政治家社長は汚いとか、やくざはいらないとか、
みんな被害者、弱者面しすぎなんだよ。
まあ簡単な処世、流行ってとこだけどよ!



非常に好きな作品です。
弾くにはリズムに注意、演奏家はロマンと古典が混じっており、
独自の弾き方をしているから、なお自分で弾くなら注意。
ただ聞く分なら、適切な演奏家であり、
この曲に適していると思う。(譜から受ける印象の自己解釈として)

内向と肉体の混じった少女のようだ。
演奏家もおっさんらしいが、理解、その性癖の適応、
否、適切に、見事に歌っている。
現代的、全体の均一感を持った人には、
不快に感じるかもしれないが、
学と考えず、学を感に利用するなら、最も心地いい。

ショパンという作曲家には、美しい曲を作り、
完成への追憶、恋というものを完璧に作っているから、
気をつけているが、この曲はある種、
老練ささえ持っているがゆえに記事とした。
その老練ささえ、青年の、青年期の恋にすぎぬかもしれぬが。

なにはともあれ、美しい良い曲、演奏です。
聞いている人も、聞く人も、ゆっくり今、聞いてみてください。
こういう支離滅裂な構成は好きだが、感情の露骨があり文としては、私は好きではない。
ただ、最後の数行の文が気に入ったから、あるサイトから拝借し、ここに掲載するだけである。
もちろんそれは私が書くことにおいて今、
書けない状態という、スランプの中にいるための、苦肉の策ではある。
(以下文は、仮名A氏より許可を得て、その文を拝借し書き写したものである。
 もちろん私は題材として、A氏に感謝している。
 ただ文の出来、あまりにも構成が悪く読みにくかったので、
 私は少しは読みやすくなるように、若干手を付け加えた)

まあ事情はさておき、さっそくA氏の文を始めるとしよう。


 作 A氏 


死にたいというクソッたれの甘えに、

僕は勝ったはず。僕は超えたはず。

そもそも感傷なんてのは、誰かを振り向かせる道具なんだ、

共感という営利的なトリックなんだ。

自己を拡大させようとするための、

一番安っぽい方法なんだ。

感動したなんてクソっくらえ!


自殺とは自己名誉の回復である。

素晴しい言葉だ。

ホントに苦しくて悲しくてどうしようもない時、

誰かにそのことなんて、相談してたまるものか!

相談できるほど恥知らずなら、

誰もひっそり死んでゆかねーよ!

その声が声になって聞かれて対処できるなら、

誰も最初から人間不信になりゃしねえよ。

僕はドラマを信じない。

僕は善人を信じない。

僕は感動を信じない。

僕は社会的常識を信じない。

僕は社会に歯向かう者も信じない。

僕は革命を信じない。

僕は変革を信じない。

僕は平和主義者を信じない。

僕は病人を信じない。

僕は妥協的幸せを信じない。

僕は女性を信じない。

僕は民主主義を信じない。

僕は友達や知り合いを信じない。

僕は人と人のやり取りを信じない。

僕は人の笑顔を信じない。笑顔とは白痴だ。


ジョンレノンはクソだ。

GODでヨーコと自分を信じているからだ。

それこそつまらない神にすぎない。

マザーの叫びは嘘だ!

人は愛する時静かなものだ。芝居だ。

その芝居の名は激情、劇場がふさわしい。


僕は全ての病人と、その医者を否定している。

特に精神なんてサギなのだ。

精神病とは最終的な自己保存の本能にすぎない。

僕はこういう医者と対決したことがある。

僕はすぐさま外科であり内科であればよかっただけである。

あなたは人の苦しみ、悲しみが分かりますか?

知るか!そんなこと言う奴は、ドラマの見すぎな淫乱だ。


死にたい。クソッたれのドラマである。

ほんとに自分で死ぬなら、何も言わずすれば良い。

それ自体が回復なのだから、遺書やそれに似たものは良い。

間違っているのは、ただ生きよと言う、楽天的な収集家だ。

はっきり言ってやる。

他人にがんばれなんて恥知らずな言葉はもう止めよ!

簡単にありがとうと言ってはならない。

合言葉にしてはいけない。

こんなものは婦女同士のあいさつにすぎず、低劣である。

処世にすぎない。

あと偏屈者の寄り合いもいけない。

そもそも寄り合い自体、偏屈ではない。


こうやって書いていると、必ず来るその道の奴らにも書いてやる!

私は人が喜んだり、気持ち良さそうだったり、自信を持っていただけると、とても幸せです。

私はみんなの一部の中で、喜びあえるのが大好きです。

私は地味でも、真っ直ぐで一途な人が大好きです。

私は、自己感情優先で、争いあう世界が嫌いです。

今日は無事に天皇陛下の手術が終わり、その手術は成功し、

これから回復に向かわれるようで、とってもうれしいです。

皇后も安堵なされ、どうか早く心安らかになられるよう祈ってます。


この国の人々は天皇、皇族に一度も洗脳されたことはなく、ただ愛してきた。






「愛がないと生きてゆけない!」
違う。
「愛があるから生きてゆけない!」
真の詩人達と、婦女子達は、
今日も大地に涙を注ぎ続ける。


馬鹿な男ほど馬鹿な女にひかからない。
知性とは愚かさを求めるものであり、
愚かさに対して、知恵が回らないのだから。


無論、良き女も馬鹿な男に振り回されるのが、常である。


性行為は女性にとって、手段にすぎない。
私は最近そう感じる。
ホモやゲイへの道なのだろうか?
今一番聞きたいのは、その道の人達の言葉である。


しかし勃起するかぎり、ゲイの存在は疑問であり、
むしろホモと精神を語り合い、金でならその方たちと遊んだほうがよい。


年頃のおなべさんは、この私の気持ちなのか?
私は独りの、少女なのかもしれない。


男の同性愛、性行為の描写を読む少女及び女性を、
けして不健康に感じず、女の本能の結果と感じる私は、
不健康な男なのだろうか?


確かに私も、若い男が雄雄しく勃起し射精する姿に、
美を感じる年齢になり、ナルシズムを若さに投影するようになってきた。
引き締まった体、それはかつての私ではなかったか?


同性愛とは精神過多の結果である。


私は同性愛を肯定する。
ただどちらか片方は、生活を支えるマジメさが必須である。


私は彼らを、マジメな愛の率、愛に対しマジメだったのが多いと評価する。


ただ「結婚も認めよ」は、時代的制度の欠陥をついたものであり、
ここに逆にその愛の、ただの遊びを感じざるえない。
結婚とは全体の真の、生の、性の相続であるから。(全体=家系)


パイパンの女性を好む男性はいる。(昔の美術家、現代のある種のアニメ、彼らは真の今の美術家)
ただパイパンの男性を好む女性は少ない。
私は最近ある種のクラブで、実際聞いた。
西洋化が進んでいるくせに、ここは現状進んでない。
最低多くの女性達よ!パイパンならずとも、陰毛の造形はすべきである。
私もこの美の感覚を認め、今では陰毛を全て剃っているのだから。
 ※(ヒゲ嫌い!という女性の感覚は美に対し正しい)


私は性の美を愛する。
今回は特に肉体を書いた。
女性は嫌がるかもしれないが、
精神は肉体である!これを整えるのは精神の賢明さである。
許してほしい。
性という羞恥を伴う繊細な生を、
身悶えながら書いているこの私を。
私は性に感謝している。

性の喜びよ、年齢ごとに様々であり、永遠であれ!


















しばらく記事を書いていなかったが、
また再び掲載してゆく。
まずは今時間もないまま、気持ちだけあるので、
前に掲載した歌詞から始める。
もちろん歌詞のように今、思っていたりもするからだ。
また0から始める。
前読んでくれていた人、これから出会う人、
よろしくつきあい願う。
(掲載や見に行くのは、夜から0時付近になると思う。)


     
背中裏の愛
       
作詞作曲 浅野幸二郎


私は夢見る あなたとの生活

暮れゆく街 あなたが彼女へと

帰る駅までの道で


あなたが笑った「ありがとう いい人だね」と

改札越し 背中の裏で

こぼれる涙でも


私の太陽は あなたの瞳

何度だって会いたい そして笑わせるだけ

時々破れた翼 私の傷跡が

始まりさえ恐れて さよなら求めるけど

大丈夫 私はいつも 酔っ払っているだけの

しがないピエロだから


夢見ないと誓い 生きるのは寂しい

だけど夢見て生きてゆくのは きっと悲しい


苦しみ果てしなく 喜びつかの間でも

いつの日にか笑える 信じて生きてくだけ

誰もが誰かに出会い 別れてく旅人

疲れ果てて倒れる 私はそこにいる

不器用に隠れ続ける しがないピエロのまま

私はあなたを愛する

いつでもいつまでも 愛する