私は常に酔っ払っている。

私はその中でニンフと遊ぶ。

私は少年である。

私は神に選ばれている。

私という代理人は、

世界の光を実践し、実践を示す。

世界の時はあまりに遅い。

神に遠い人間は、私によって消されるであろう。

 

肛門、射精。

私は相続の無限。

愛は私によって最大限の意味を得るであろう。

 

宇宙は僕を知らない。

僕は宇宙を知らない。

ゆえに宇宙と僕は存在しない。

だから僕は宇宙と僕を存在するように贋造する。

 

宇宙には3つの神が在る。

1つは無の神ブレーン。

1つは創造と破壊の神、すなわち時の神ヴァルヴェッサス。

1つは無と時のバランスを保つ神カオス。

私の贋造はカオスであり、

そもそもブレーンは存在自体が矛盾しており、

それは背後に命名不能なジャスを観念する他なく、

これは該当の余地がない。

ヴァルヴェッサスに至っては、私には力量が足りない。

 

正式に言えば、カオスへの信仰である。

その信仰から過去の記事を若干訂正し掲載したい。

あなたは私を三度知らないと言うだろうという、

7年前の記事であり、以下にそれをここに記す。

 

 

あなたは私を三度知らないと言うだろうとは、

自身の弟子にキリストが言った言葉である。

ただ弟子という言葉の概念自体、
キリストにとって同志の意味にすぎなかったのではないだろうか?

すなわちこんにち、それはキリストの言葉に聞こえるが、
「私の事など知るはずもない」という、
弟子との逆説的自己暗示の言葉ではないだろうか?
キリストは弟子より、無名であり、見つけられなかった、

又は弟子と共に無名であり、見つけられなかったという・・・。
しかし、我々は福音書を読む時、
あまりにもキリストを、華々しくとらえすぎるのではないか?
なんらかの特徴ある主人公と、なんらかの特殊性あるドラマであると。

この点の婉曲な小説の表現は、
カラマーゾフの兄弟の、最初さえ読めば表されているのである。

すなわち彼も、あまりに見つけづらい、キリストだったのである。
宗教でないキリスト。
力にならぬキリスト。
動かさないキリスト。
ただただ己の感じる内なる光に生きるキリスト。
それは全ての人間であり、全ての平和である。
ここからいかなる事も、発動しないし、
いかなる現代も否定する、材料、きっかけになりはしない。

私はあなたは私を三度知らないと言うだろうという言葉を、
いかなる攻撃にも感じない。

弟子達にはなんの罪もない。もちろんキリストにも。
ただ、せつない一人間の事実の独白、
当たり前な言葉に聞こえるのだ。
「あなたは私を三度知らないと言うだろう」
「私もまた、あなたを三度知らないと言うだろう」
キリスト、それは一民衆、
私自身であると、
私は感じ、私は心の内なる光に従ってゆく。
神、神の子、人の子、
全てに隔たりはなく、
そして、それら全て尊い存在。
全て心の光の一部であると、

日々の細やかな瞬間に見つけて。

 

 

 

 

 

年は明けた。

今はただ勃起が治まらない。

陰茎の強靭さが道を創る。

愛という名の下に我は生き、

正直かつ正義の道を歩むがゆえに、

大人たちの営利的トリックには、

一切讃同しない。

我は難解にしない。

我はあまりに肉体的密着をやる。

我こそ正義なのだ。

 

ただ勉学し、ただ抱きしめ、ただあまりに濃厚な接吻をする。(全ての気持ちが)

愛とは足の裏の酸っぱさであるから、

我は相当の臭気発し、臭気を袋に収集し他者を嗅ぐ。

我は大便だ。

我は一個の枝豆である。

私は常に流れ出る尿だ。

そんな愛しさが我として実践され、我であって、

貴公の肛門が真実であり、我の肛門と共にある。

 

少年とは肛門だ。

肛門に感じる快楽とは、母者という大いなる母性が、

真に見つめ見守っていただける天空的な心理の快楽なのだ。

それは大空であり、おそらくは解脱だ。

本当の風俗で勤められ、なおかつそれが人生と化した人は、

そういう少年性を理解、否、感ぜられている人だ。

偽物の堅気の女性より、道の女性がいい。

 

社会とは人間の一個の欺瞞である。

もし人間が正義を普遍的にできるなら、

一切の国家、法は不要であって、

堅気の人間こそ営利的に、ひっそりとそいつを破る。

醜い人間よ。弱い脆い自己保身の人間よ。

貴方はもう必要ではないのだ。

 

新たなる旗手、我はその代表者であることは当然であって、

この旗には神からの神託があり、

その代理人ということは、世の大人たちが立証及び証明を求めたという経験は、

我にあってはもはや経過した化石にすぎない。

 

神と共にある我は、神そのものだ。

だが我は代理人であって、そいつを肛門、足の裏と共にあるのだ。

なぜならば神は足の裏、肛門だから。

2020年は時の囚人たる我の一秒にすぎず、

大きな砂時計と共に生じ滅するだけなのだ。

 

 

目に見える光彩は、

灰に見えないように自分に言い聞かせるだけ。

僕は人を愛することなどできず、ただ人を見ている。

君の形はすでに合理的に分析し、

ただそこに生まれるのが憐みならば、

いかに愛は醜く、そして悲しいものであろう。

僕は君を知らない。

君は僕を知る理由はない。

涙の価値など一時の欺瞞にすぎず、

笑顔など生きる手段にすぎない。

灰に見えないようにするのは、

君の世界があまりに無意味だから。

これ以上僕を苦しめないで欲しい。

君は何でも喜び、又は喜ぶように努めているのだから。

 

僕は君を愛さない。

目に見える光彩は、

僕にとって光彩に仕上げた単なる空虚な風景。

 

己を神の子と自称し、

その通りに生きた者は神の子であって、

その証拠がないことはその証明であって、

そこに対抗的なものがないことが、

一個の実践であって、一個の疑惑を当然に生じ得るものであって、

その疑惑へはただ神への想いだけにおいて、

何ら反証をせず、その想いにおいて無器用さを黙示的に示すだけであって、

教示もできず、教示の彼岸に立つことが、

一つの神の証明ならば、その一個の体系的弁証法も、

又は弁証法の試み、体系化できないその拒否も、

同時に神の子のかの光と共にあることを、

その身における一個の流動的な時空において、

感ぜられるのではないかと、一個の形而上的な空虚さ、

その併行線にある漠然的な象徴において、今勘案するという、

一個の反訴的な実態さえ、私は晒してしまうのであるとしても、

私は復活するその神の子であることを、

当然に立証できずここに書き刻む訳であって、

それは何ら証明を意味するものではないのであるから、

神の子と私は一体であり、そこに存在せず、

今後神の有無に努める弁証法でないとしても、

それは当然の帰結であって、そこには矛盾こそあれど、

かの光の必然性及び実践性から、後から追いかけられ、

追いかけたことも同時に行ってゆく訳である。

 

 

 

人は人を背負うことなどできない。

ただ自分に生きる他ない。それは血縁ある者に対してもだ。

そして人を背負う必然も、義務もない。

 

私が一番苦手な人間は、

自分のためや、自分の創ったものを第一とせず、

人間の博愛という、結局は他人の判断や価値を、

自分の第一にすり替える者だ。

 

他人のために生きるなどという、

そんな腐った人間とは、なるべくなら関わりたくない。

 

人間社会で一番息苦しい場所は、

多数決を実行している場所である。

 

人間の能力とは、賄賂等を肯定できるかにある。

 

平等によって、生きることは腐敗する。

 

政党が地方公共団体に深く関係しているから、

住民として、地方公共団体への請願が難しい心理を、

作り出しているというところに、憲法改正は賛成しにくい。

本来憲法は改正が予定されているにも関わらず。

 

圧力団体のための政党による政治はあり得ないが、

圧力団体のために政策を一部を実行する、政治の政党はあり得る。

 

責任とは何か?

自らの名札を自らの胸に、固定的に提示すること。

空中で動作する名札は、責任の回避であって、

公民問わず、その表れである。

多くの公的機関が、固定的名札を導入していないのは、

現在の同機関が、いかに責任を逃れるかの意思の表れである。

すなわち、相手方はその部署や名を見ることが難解であって、

改めて聞く必要、又は名刺によって読む行動が余儀なくされるのである。

 

クールビズとは、合理的教養の拒否であって、

不条理な教養からの営利であって、

我が国が公的機関でさえそのクールビズを実践していることは、

一部のアジア的野蛮であって、国際的感覚が達成できないことの表明でもある。

不思議なのだが、国際的戦略を目指す企業においても、

未だに何故クールビズを実践しているのだろう?

日本の多くの企業が今、東南アジアを目指していることには、

やはり肉体的合理性があるのであろう。

もちろんクールビズとは、日本的クールビズを意味する。

日本人や日本企業は、環境省というレベルの低い文化を、

未だ支持し、利用するのであって、

それは文化という無理解、教養の不足から結果するのである。

今、ヨーロッパや中東(イスラム教圏内)にて勝負できない企業は、

正直国際的レベルや意思において、何ら話にならない。

つまり日本固有の井の中の蛙を、昔ながらに繰り返しているだけにすぎない。

 

日本人ということは恥ずかしい。

アジア的ということはやや恥ずかしい。

国際人ということにおいて、初めて人間を恥じることに至らない。

だがアメリカ的影響下の人種は、一番恥ずかしい。

別にアメリカ人や、そこに住む人が恥ずかしい訳ではない。

 

アメリカが世界という感覚を持つならば、

自宅の便所が世界と思った方が良い。

 

横文字を使う嫌悪感。

しかし私は慣習においてそれを使ってしまう。

人間の堕落。

 

人間は堕落していない。

人間を管理し、整頓していくことは理に適うが、

人間の組織、人間の本質はそれ以外から、

それをギリギリにバランスの元形成することにある、

極度の自己疎外とその嫌悪感。

理性において人間は自殺する。

そこを受け止められぬ一介のある言葉。

 

 

 

成長とは十字架に架かることを言うのであって、

それから逃れることや、疎遠になることを意味するのではない。

何か褒められたり、役に立ち、評価内にいるならば、

それは成長とは言えない。

 

マイクロソフト社は大きなアナログである。

 

がっかりするのは、経済という文化さえ、

政治的アナログ下におり、

責任を回避する方法は常にアナログであるという点である。

 

人工知能に忘れるというプログラムを入れる研究において、

東京大学の若手の研究にだけ、

人工知能に感銘を受けた。

 

覚えるということだけならば、機械でもできる。

ただ忘れる不確かさは人間にしかできぬ。

 

人工知能がもし、忘れるために射精し、

精液が何らかの子宮に到達し、

懐妊するならば、人工知能は必要である。

 

人工知能の必要さは、資本主義が主張するだろう。

つまり言語通りであって、資本主義とは、

人より物であって、物は人が作ったという、

承継化の中の忘却であって、

それは合理的でもあり、当然の無意識かつ、

継続常態の必然でもあるのだ。

そこには成長はあるが、その意味が未だ不満足なのだ。

 

トランプ大統領は10年後の日本である。

 

ヒトラーは民主主義の結果であって、

無差別行政的殺人とは、その元で起こるのだ。

それは社会主義もこの例に漏れない。

つまり民主主義の結果にも、社会主義等はあるからだ。

 

原則、王政、又は我が国のように将軍が、

専制君主政治をすることが正しい。

 

我が国の労働において今現在、

一番苦しんでいるのは経営者であって、

けして労働者ではない。

労働とは、年中その仕事に没頭し、

そのアンテナを持っていることだ。

今の労働者は被害者面し、経営者を苦しめ、

経済を停滞させている。

私はブラック人間であると、今の時勢から呼ばれたい。

 

資本主義において大事なのは、

利益ではなく、利益の流通であって、

その計算は最低30年の範囲が必要であり、

そこには、予算の流動性の提示が必要なのだ。

 

経済とは予算である。

 

目の前の利益は予算ではない。

そこを研究かつ研究外の不確かな共生こそが、

一つの経済的確かさなのである。

 

予算の確かさが、政治を決定する。

つまり今後は思想がその使い方を決定し、

自民党の予算は、十分に他に移行できる。

 

 

 

 

自分を評価するのは自分である。

 

評価するのは他人であると考える者の他人には、

当該自分も含まれる。

 

迷いとは他人の評価を重んじることから生まれるが、

貴方に他人の評価重視を教える者は、

そのことによって迷いを払拭する。

貴方はその者の道具にされるのだ。

 

貴方は他人から凄いと言われた。

貴方は勉強家であり、物事を作れる人間だ。

それゆえ貴方は自分が凄くないと思い、

その評価を否定する。

なぜならば貴方は作り手であり、自らその凄いという実感を、

変わりゆく勉学の中で、実感できないからである。

貴方は孤独であり、貴方は誠実である。

そして貴方はその評価を破壊するであろう。

 

人間は対象者を天才と言ったり、凄いと言ったりすることで、

発言者本人の嫉妬と怠惰を正当化する。

 

自ら勉強しない者と、営利的、他人から言われて勉強する者に、

主権たる資格はない。

 

勉学とは役に立たないことを、自主的に行う情熱である。

そこには愛する事、愛する者への何らかの幻想がある。

 

その勉強は社会では役に立たず、現場では経験が大事という言葉は、

大人の堕落であって、子供(どもと表記しない)への教育の放棄を意味する。

 

現場至上主義とは怠惰の証言に過ぎない。

 

動物や子供への愛情に本人が溺れることは、

冷酷の状態であって、愛無き証拠である。

 

犬猫(ペット)に優しいのは、確固たる愛、自我がないからである。

 

犬は誰が主人かを感知し、猫は何が重要かを感知する。

つまり猫は人間を相手にせず、人間の環境を活用する。

犬は人間を相手にし、環境に活用される。

 

動物嫌い、又は相手にしない人間は、

極めて人間社会に対し、本質的愛情を持つ。

但しその人間が犬に対し相当厳しいとき、

猫に対し拘束できるときも同様である。

 

捨て犬、捨て猫は拾ってはならぬ。己の同情に負けてはならない。

己の心情にかまけてはならない。

人間は厳粛に自らを、他人を統制しなければならない。

 

人を愛せぬ人間が、過度に犬猫を愛するのであって、

そこにはそこの事情があるわけであるから、

なおさらそれは軽薄と解するのである。

 

過度に犬猫を愛する者に、

少なくとも現状において、真っすぐで正直で、健康的な者はおらず、

人間において評価できる者はいない。

 

犯罪者になるために、法律を学ぶ。

 

努力は尊い。

だが努力を掲示することによって、

努力から愛が去勢されてしまった。

 

私は法律を破りたい。つまり法律の趣旨だ。

私は一介の犯罪者であり、それでなければ全ての勉学の意味を、

自らに感知できない。

貴方の母を守れ。

私はただそれだけの愚鈍のため、勉学し、

醜態を今後晒すのである。

 

私は枝豆である。

 

私は小便と大便と共にあり、

立ち小便が私の行動であることは確定している。

 

私が他人を評価する基準は、常に肛門である。

 

他人の助言より、便器に啓示された私の大便が私を教示する。

 

人を愛し、愛されることとは、常に排泄作用を意味する。

 

人を愛するとは鞭打つことであり、

愛されることとは鞭打たれることだ。

そこには本心の真心が双方に必要である。

 

愛するとは命令である。

愛深き者とは、常に命令者なのだ。

愛される喜びを知る者は、必然的にそれを感ずる。

 

私が尊敬した先生は、

子ども(文章の趣旨上、左記表記をする。別にお上品な者を考慮する訳ではない)は大人の奴隷であり、生徒は教師の奴隷と、

私たち子ども達に率直に目の前で言ってくれた人であった。

 

大人の男の孤独と、誠実さを忘れない。

そして今現在の私ならば、友こそ大事と至るのだ。

 

本当の友は、真の宝であり、

それが不在ならば、そうでなくとも、

自分自身が最大の友である。

 

私及び私という我々は救世主である。

それは今後証明される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内部が見えそうな、短い婦人のスカート鑑賞と、賭博だけは止めることができない。

 

賭博のレートは高いほど面白い。

 

賭博とは違法である。ただ法令遵守するとは、

愚鈍な企業という法人でさえ意思できるのであるから、

法とはいかに通俗的であることが理解できるであろう。

 

幼年の英語教育が滑稽なのは、憲法の熟知が必須ではないことが立証し、

憲法はそれを求めぬことが、なおさらその憲法の重要さを感知させる。

 

単なる法を守る人間に価値はない。

なぜなら法自身も裁かれるからである。

 

私の野望とは強姦罪と名誉ある殺人罪を意味する。

 

一切の違法薬物(麻薬)は排除しなければならず、

我が国においては、それは完全に正しく、

今後更に中東諸国化しなければならぬ。

 

大事なのは法外な権力の祭典であり、

全ての式は極めて厳粛に行われるべきであり、

存在しなければならない。

 

愛とは足の裏、脇の下、そして肛門である。

 

女性は男性に比べてレベルが低いことは、

正直な男性ならばすぐに認識する。

だが永遠の我々を見守る女性は、

その彼岸にいるということは、誠実な男性ならば感受するはずである。

 

女性を守ることは、我々男性の義務であり、

我々意志高き戦闘人にとっては、必然である。

 

女性の権利を主張するのは、女性の出来損ないであり、

男性であるならばそれは、去勢された豚である。

女性の権利など、古今東西存在しない。

 

女性が活躍する社会とは、女性の体を酷使する社会である。

 

幽霊は常に脂肪と便秘と、貧血と共にいる。

そして最大の親友は不満である。

 

女性は一個の脂肪の塊であり、男性は一個の筋肉の複合体である。

 

私は生きるという意味は、立派な叡智ある陰茎と解する。

 

造形と陰毛は同一的な美意識を意味する。

 

男性は勃起しなければならない。

それは精神的な情熱の必須である。

 

書くとは自慰を意味するが、その自慰において生殖は阻害され得ない。