少しずつ、書いていこうと思います。
わたしの乏しい知識なので、
それ間違ってるよ!とか、
こういう説もあるよ!とか、
どんどんご指摘くださいね。
皆さんからの感想で気になったものと、
お芝居に関しても併せて書きます。
◯最後の方のシーンで、生き残った3人組が米兵に頭からかけられていた白い粉はなに?
ゲネプロを観劇してくださった、高校生のツイートかな?と思われるこちらの疑問。そうか、知らない世代もいるのか。と思い印象に残っている感想ツイートです。
あの粉はDDTというシラミなどの殺虫剤です。
ずっと「鬼畜米英」「捕虜になると女は辱めを受け男は引きずられて殺される」などと教え込まれていたのに、実際に捕虜になると米兵は傷の手当てをしてくれたり食糧を与えてくれたりとても優しかったので驚いた、今まで自分が信じていたことはなんだったのか。というような証言も多くあります。
はるかなみさが捕虜になるシーン、「投降」というシーンなのですが、わたしが客席から観た時は米兵の予想外の優しさに拍子抜けしている3人がなんだか可笑しくて、ホッとしたシーンでした。でも自分がいざ演ってみると、心理状態はどえらいことになっていました。台本にある通り、本気で「わけが分からな」いんです。
どうやって自決するかを話し合うナンバーの時から一貫して、わたし演じるはるは、チャンスさえあればいつでも死ねる!というふうな心持ちでした。事実、「どうせ死ぬんだから逃げずに壕に留まろう、と思ったら、生きたくて逃げた人たちにちょうど爆弾が落ちて、留まった自分だけ生き残った」とか、「捕虜になってもどうせ殺されるから手榴弾のピンを抜いたけど、不発弾だったために生き延びた」とか、そういう証言がたくさんあります。
はるも、あんなにボロボロになって島の南端の海岸まで逃げてきて、そこでもまだ生きるか死ぬかを悩んでいる、むしろ、どちらかと言うともう結構死にたい。。くらいに創ろうと思い、演出の指示ではないのですが投降のシーンでも手榴弾を持つことにしました。このピンさえ抜けば、もうこんな周りも死体だらけの中逃げ回っていないで今すぐかなとみさと楽になれるのに、、、
となりで、海水なんてしょっぱいのにそれでもなりふり構わず飲んだりして生きようとしている2人を見ると、どうにも最後の勇気が出ない…というところに、米兵たちが現れて、思わず手榴弾のピンを抜こうとするところを没収され、もはやここまで。今度こそ本当に死ぬ覚悟が決まったのに、飲み物や食べ物をくれる米兵!わけが分からなくなりますね。
死ぬ覚悟が決まってしまうもんだから、家族の顔が浮かんだり、はるの人生が走馬灯のように脳裏をよぎったり、、、一度「死ぬ」と決めたのに生き残ったはるかなみさにとって、やっぱり「生きていく怖さに 死にたくなった」というフィナーレの歌詞はこれ以上ないくらいの心の声であると感じます。
檜山上等兵役の中井さんが、「このシーンで3人が生きていてくれるのが救いで涙が出る」というようなことをおっしゃっていて、確かにコミカルに描かれてはいるけれど、「生き残る」というのはそれこそ間一髪だったり、その生死の境は誰にもわからなくて…だから、「わたしだけ、わたしたちだけ生き残ってごめんなさい」という気持ちが湧いてしまうのだけど。
でも亡くなった学徒役の子たちが、「生き延びてくれててよかったって、心から思っているよ」と言ってくれたことで、やっと少し「生きていてよかったんだ」と思えました。
◯生き残ったはるちゃんのその後の人生が気になる
はるのモデルとも言えるでしょうか…
三角兵舎で執り行われた卒業式で卒業生代表の挨拶をした方は、実際に戦争を生き延びられました。戦後、ひめゆり平和祈念資料館の館長や理事長を務めた方です。1979年に、生き残った方達の34年ぶりの卒業式が開かれました。その時も、この方が当時と同じく卒業生代表の挨拶をされたそうです。
はると学徒たちが卒業式で歌う曲は、実際に学徒たちの卒業式のために、福島県出身の陸軍少尉・太田博さんが作詞し、沖縄師範学校女子部の東風平恵位先生が作曲をした「別れの曲」がモデルになっています。ひめゆり平和祈念資料館で流れているのもこの曲です。
生き残ったはるや他の学徒が戦後どのように生きたのか。わたしが調べた中では、戦後すぐだと戦争孤児を集めた施設で先生として働いた学徒がいるようです。
卒業生代表の挨拶をしたはるのモデルのような方も、戦後31年間、小中学校の教壇に立ち退職後にひめゆり平和祈念資料館の運営に関わってこられました。生き残った方々が、思い出したくないことだけれど自分たちが語り継がないと忘れ去られてしまうと思って重い口をひらいてくださったから、いまこうして私たちは少しずつですが当時のことを知ることが出来ています。
一方で、
せっかく米軍の捕虜になり助かったのに「捕虜にはなるな」という教えが刷り込まれていたためか、連れて行かれる道の途中で燃えていた家に身を投げ焼身自殺をした祖母を目の前で見た、という当時少年の証言もあります。。
ほかにも米軍の捕虜になった人が、まだガマの中に隠れている日本人に殺されないから投降するようにと呼びかけてくるよう命じられたけれど、ガマの中にいた日本兵にスパイだと言われ殺されてしまったという証言も。
本当に、生きるか死ぬかは紙一重だったのだと思います。
ラストシーン、ガマの中から白旗を掲げて、避難していた沖縄の人たちが出てくる中にキミの姿もあり、キミが「生きている」を歌います。そこにふみルリの姉妹とはるかなみさが加わって、後ろには綺麗な姿の学徒たちが現れます。
このシーンの最後の位置をつけられた時、ハマナカ先生が、「亡くなった学徒たちが、いまひめゆりの塔が建っている伊原第三外科壕の入り口のふちに立って、生き残ったキミたちを見守っているようなイメージです」とおっしゃって、楕円形のような立ち位置をつけました。
その演出を受けた時からわたしの中では、キミが「生きている」を歌い出したところからは1945年ではなく、現代なのではないかと思えたのです。この作品全体が、生き残っておばあちゃんになったキミや、ふみルリや、はるかなみさが、心は当時のボロボロの姿のまま、綺麗な級友たちの姿を思い描きながら、客席に向けて実体験を語りかけていたのかもしれないと。だから私たちはるかなみさはその直前の投降のシーンは裸足ですが、フィナーレは靴を履いていました。時が同じではないからです。
そして千穐楽公演はまさに、生き残った私たちを戦後72年経って、級友たちが迎えにきてくれたような感覚でした。はるちゃん、やっと安らかに眠れるね、と。
よくわたしの舞台を観に来てくださっている方から、「カーテンコールであんなに泣いている茜ちゃんを観たのははじめて」と言われましたが、そういう感覚があったからだと思います。
なんだか初回から
ラストシーンのことを
書いてしまいましたが(笑)
他のシーンのことも
いろいろ書いていきますね☺️
あかねはる