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前囘の記事において「人權觀念とは歴としたフィクションである」と申しました。そして「重要なのは、そのフィクションを本氣で信じられるかどうかである」とも書きました。
わたくしの問題意識として常にあるのは「國や地域によって、人權(といふか人間)が尊重されてゐないところがあるのはなぜか?」といふことです。人權觀念が普遍的であるとするなら、程度の差こそあれ、世界中で《それなりに》人權が保障されてゐなければならないはずです。しかしながら、現實はさうなってゐない。
たとへば支那人は、人間としてろくに尊重されてをりません。一億人や二億人死んだところで問題は無い、と考へるのが支那の傳統的思想であります。また、イスラム教文化圈においても、一般的な人權觀念がうすいやうに見受けられます。
それらの現状をふまへると、人權觀念が普遍的であるとみなす方が誤りではないかとおもはざるをえません。世界の方が誤りなのではなく、人權觀念の方が誤りなのではないか?
誤りといふ表現がふさはしくなければ、かう言ひ換へませう。人權觀念が、人々をして信じさせる力をもたない、と。人權がフィクションであることは確かです。そのフィクションを世界の人々が信じないからこそ、尊重もされないのではありませんか。
同じフィクションであっても、國家や民族といったものは信じるけれど、人權觀念は信じない(日本はむしろその逆?)。それが世界の標準でありませう。ヨーロッパは人權觀念の發祥地ですから、それが信じられてゐるのは當り前です。ほかの地域で信じてくれなければ、普遍的價値をもつとは言へません。
人權が尊重されてゐるかのやうに見えるわが國においても、事情は似たり寄ったりかもしれません。倉山滿氏の『誰が殺した? 日本国憲法!』(講談社)の第一章は「最高裁は人權を守らない」と題して、いかに裁判官の人權觀念がうすいかを論じてをります。
倉山氏の言ふごとく、わが國においても人權觀念は信じられてゐないのです。裁判官たちは、信じるフリをするだけであります。それでは、なぜ人權が信じられてゐないのか? 繰返しになりますが、それはわれわれが日本人だからです。
全知全能の神が人權をあたへたといふ物語を、日本人は信じられないのです。唯一絶對神を信仰する排他的・非寛容な宗教を、われら日本人は受けつけません。生理的に無理なのだとおもはれます。歴史に照らしても明らかです。
信じられないのにもかかはらず、それを信ぜよと憲法に書いてある。しかたがないから、信ずるフリをする。それが、わが國の現状ではないでせうか。ふだんは人權尊重をさけぶ人(左翼)が、みづからと異なる思想信條の持ち主(右翼)にたいしては、途端に偏狹になって、表現の自由を侵害することがあります。その例こそ、人權觀念が信じられてゐない何よりの證據です。
信じるとすれば、それは取引の材料とか、方便とか、その限りにおいて信ずるにすぎません。人權觀念をつかった方がオトクだからつかふけれども、その價値は信じないのです。
これはわたくしの危惧なのですが、日本國憲法が施行されて戰後的價値といふものが一般的になるにしたがひ、むしろ人間が輕視されてゐるやうな氣がしてなりません。昔の方が、まだ人間が尊重されてゐた。貧しさからくる不便はありましたが、人間を輕んじる傾向はなかったとおもはれます。それが今では、人間輕視のオンパレードです。
ふつうに考へれば、人權觀念が定着すればするほど、人間は尊重されるはずであります。が、現實は逆です。不思議なものであります。
いや、不思議でも何でもありません。信じられないことを無理に信じようとしたり、信じるフリをしたりするから、むしろ中身がうつろになり、形骸化するのです。人權尊重といふスローガンだけはやかましく、その中身については空虚になる一方・・・・・・。
われわれはいい加減、人權觀念に見切をつけるべきなのです。そんなものを後生大事に抱へつづけても、幸せにはなれません。それでは、いったいどうすればよいのか?
簡單なことであります。ヨーロッパ起源の人權觀念に別れを告げ、われら日本人が心から信じられるやうなフィクションをあらためて考案し、人權を規定しなほすのです。つまり、われわれの言葉をもって人權を語りなほすのです。外國の人權觀念ではなく、《わが國の人權觀念》を定めるのであります。
ただし、ヨーロッパの人權觀念とわが國のそれとは、保障される中身は同じです。思想良心の自由からはじまる諸權利を保障する、といふところは變りません。異なるのは、その出處來歴・根據をどこに置くのかといふところです。そこが信じられるかどうかによって、人權が保障されるか否かが決まります。
ヨーロッパにおいて、人權が保障される根據は全知全能の神に求められます。神が人權をあたへたのであるから、それを侵害してはならない、といふ理論構成をとるわけです。しかし、わが國にはその手がつかへません。
わが國においては、宗教ならば佛教が、人權保障のよりどころとなりませう。排他的な宗教ではありませんし、教義がきちんとしてをります。日本佛教の獨自性である《山川草木悉有佛性》から、人間尊重を導きえますし、環境保護も根據づけられます。言ふまでもなく、神道からも何らかの根據づけができます。いろいろな案があってしかるべきところです。
人權保障の根據を宗教に頼らないとするならば、天皇を人權保障の根據にすゑるべきであります。ただし、ここで言ふ天皇とは、「すめらみこと」ではなく「すめろき」の方です。前者は個人としての天皇であり、後者は天皇といふ存在そのものであります。詳しくは、またの囘にいたしませう。けふの結論は、これであります。
「われら日本人が心の底から信じられるやうな人權觀念を、日本人みづからの言葉で語るべし。」
(つづく)
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