シラスとウシハク【保守・革新でなく、日本獨自のありかたにもとづく區別をとり、時事・歴史問題を考へるブログ】 -8ページ目

シラスとウシハク【保守・革新でなく、日本獨自のありかたにもとづく區別をとり、時事・歴史問題を考へるブログ】

日本人固有の思想をもって、
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  わが國に人權觀念は要らないと、いささかショッキングな書き方をしてをります。わたくしの言はんとするところは、《ヨーロッパ起源の人權觀念》が要らないといふことであって、人權が保障されなくてよいといふことではありません。西洋の人權觀念をそのままコピーして濟ますのではなく、わが國にふさはしい人權觀念をうちたてるべきなのです。


  世界中で人權が保障されない現實をあらためるには、國・地域ごとの人權觀念をつくるほかないとおもはれます。そこに住む人々が心から信じられる物語(フィクション)としての人權を、オーダーメイドでつくりあげるのです。


  イスラム教文化圈はイスラム教にもとづいた人權觀念を、支那は支那にふさはしい人權觀念を、一からつくるべきであります。それが可能であるか否かは問題になりません。ヨーロッパ起源の人權が無力でしかない以上、ほかに道がないからです。






  前囘の記事においてもすこし述べましたが、わが國にふさはしい人權觀念をうちたてる方法としては、宗教に據り所をもとめるものと、天皇に根據をもとめるものとがあります。


  わが國が佛教國家であることは、議論の餘地のない眞實です。「えっ? そんな自覺は無いよ」と感じる人が多いでせうが、それは自覺が無いだけであります。すこし眞面目に歴史を調べてみれば、すぐにわかります。


  歐米諸國がキリスト教國家であることと同じく、わが國は佛教國家なのです。たとへば、方々で人氣の高い《もったいない(勿體ない)》といふ言葉は、もともと佛教用語であります。人間・世間といった言葉も、佛教を起源にもつ言葉です。たまたま手近にあった、松原哲明『暮らしに生きる禅の言葉』(PHP出版社)を見ると、日常的につかはれる100の佛教用語が記されてをります。使ひ慣れた言葉ばかりです。


  わが國を古今東西にわたって調べれば、佛教國家と言はれても何の違和感もなくなります。むしろ、當然だと感じられるでせう。わが國が人權觀念の根據を佛教にもとめるのは、何ら不思議なことではないのです。






  人權觀念の據り所を天皇にもとめることにも、違和を感じる人があるやもしれません。が、それもをかしなことではないのです。きはめて自然なことであります。次はそれについて述べたいのですが、その前に、宗教的な人權觀念の弱點について、考へてみませう。


  ヨーロッパ流の説明では「人權とは神からあたへられた權利である」と、事もなげにいふのですが、世界をみまはしてみると、そんなものは繪に書いた餠であることがすぐにバレてしまひます。


  そもそも「神」と言っても、肝腎のヨーロッパ人たちがもはや神をあまり信じてゐないのです。信じてゐないといふか、神について論ずることじたいを快しとしません。それは世俗化の結果であります。また、宗教をめぐって悽慘な殺し合ひまでやったので、「もう宗教はこりごり」といふのが、彼らの本音なのです。(アメリカは、また事情が異なります)


  本家本下のヨーロッパにおいてさへ、「神」とはそんなものなのですから、それを他の地域でも信じろといふ方がをかしい。


  さらに、「生まれながらにあたへられた人權」と言ったところで、ほとんどそれが保障されてゐない地域があることは變りません。生まれた時代・地域によって、或る人は人權が保障され、別の人はほとんどそれが保障されない。この現實のどこに、「生まれながらに人權があたへられた」とみなす根據があるのか?


  つまり、「生まれながらに~」式の説明は、現實との乖離がはなはだしいのです。それは、イスラム教的な説明や佛教・神道的な説明をしてみたところで、同じであります。キリスト教・イスラム教・佛教のそれぞれから人權觀念をみちびきだしたとしても、人權が保障されてゐない地域が出てしまふことは避けられません。






  なぜ、人權が保障される地域とされない地域とに分れてしまふのでせうか? それらを分ける分水嶺は、どこにあるのでせうか?


  それらの疑問を解くカギは、政府(統治機構)の存在にあります。まったうな力・見識をもった政府のもとにある地域においては、人權が保障されます。統治能力をもたない政府や、力があってもそれを惡用・濫用するやうな政府のもとでは、人權が侵害されます。


  無政府状態において、まったく人權が保障されなくなるのは、わかりやすい道理です。生命を脅されたとしても、救濟を求めることはできません。訴へる先がないからです。


  無政府状態とまではゆかなくとも、一定の地域を排他的に支配する力をもたない政府ならば、その地域に住む人々はやはり苦しみます。内戰状態にある國の民がひどい目にあふのは、そのためです。例をあげるまでもないでせう。


  次に、確乎とした統治能力をもつ政府であっても、まったうに統治しようとする氣のない政府であれば、人權侵害がおこなはれます。そのタイプの國は、何と言っても中華人民共和國です。みなさんもよく御存じのとほり、かの國においては人權なんぞあってないやうなもの。地位・財産がなければ、人間としてまともに扱ってくれません。






  政府が人權を侵害するものであることは確かです。が、それと同じく、人權を保障して民に安寧をもたらすものも、また政府なのです。その點をふまへない人權論議は、すべて夢物語であり、現實にはたらきかける力をもたぬ主張であります。


  わが國においては、歴史をつうじて、人權がおほむね保障されてきました。困難な時代にあっては制限をうけましたが、それは仕方のないところ。それでは、なぜわが國で人權が保障されてきたかといへば、政府が充分な支配力をもち、それなりにまったうな統治をしてきたからです。


  では、なぜわが國の政府は(支那と違って)まったうであったのか? 天皇がつねに在(いま)し、精神的な統治作用を國中におよぼしてをられたからであります。
(つづく)




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