シラスとウシハク【保守・革新でなく、日本獨自のありかたにもとづく區別をとり、時事・歴史問題を考へるブログ】 -10ページ目

シラスとウシハク【保守・革新でなく、日本獨自のありかたにもとづく區別をとり、時事・歴史問題を考へるブログ】

日本人固有の思想をもって、
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  わが國には、human rights (人權)といふ觀念は要りません。そんなことを言ふと、氣違ひか獨裁者だとおもはれさうですが、どうか早合點なさらず、後の文をじっくり御讀みください。さすれば、わたくしの言はんとすることがわかっていただけるはずです。






  人權概念は、近代ヨーロッパで誕生いたしました。それは周知のことです。それでは、なぜ近代ヨーロッパなのでせうか? これから、ちょっと考へてみます。


  理由はいくつかありませう。第一に、そこがキリスト教文化圈であったから、といふことが擧げられます。


  人權は、全知全能の神(Mighty God)によって萬人にあたへられたといふことになってをります。つまり、きびしい一神教のもとで生まれたのが人權といふ觀念です。言ひ換へれば、一神教に支配されない地域では、人權觀念は生まれてこなかったと考へられます。






  さうなると次に湧いてくる疑問が、「なぜキリスト教文化圈だけで?」といふものであります。なにゆゑにイスラム教文化圈ではなく、キリスト教文化圈において人權觀念が生まれたのでせうか?


  おもふにそれは、啓蒙思想のおかげです。世俗化と言ってもよい。それまで教會に隸屬するだけの存在とみなされてきた人間を解放し、自由獨立の存在にとらへなほしました。それにより、人間を大切にする思想が生まれ、人權觀念につながったものと思はれます。


  隸屬からの解放としては、絶對君主からの解放も含まれます。それまでは君主の財産・奴隸にすぎなかった人民を、尊嚴のある主體としてとらへなほしたのです。かくのごとく、何者かに隸屬すべきものとされた人間を解放し、尊嚴をあたへたのが啓蒙思想であります。


  かたや、イスラム教文化圈で世俗化がおこったのは、かなり最近のことであります。トルコの世俗化が有名です。ただし、いまだ世俗化してゐない地域もあります。(もちろん、世俗化してゐないことを一概に惡とみなすべきではありません。)


  今に至るも、イスラム教文化圈においては人權觀念が稀薄であるやうです。實體はさだかではありませんが、西洋人はそのやうに批判してをります。結局のところ、イスラム教文化圈では人權といふ觀念がつひに生まれなかったといふことでせう。(もちろん、それが惡いことであるかどうかは、一概に申せません。)






  まとめると、一神教であるキリスト教文化圈において、啓蒙思想による世俗化がすすんだために、人權觀念が生まれた。さういふことになります。


  しかしながら、ここでわたくしは疑問を感じます。世俗化とは脱宗教化のことであり、それは謂はば、神からの解放であります。神からの解放を言ひながら、神によって人權がア・プリオリにあたへられたとみなすのは、蟲がよすぎるのではないでせうか。神を頼らないと言ったその舌が乾ききらぬうちに、人權が神からあたへられたと強辯する。何といふか、矛楯したものを感じます。胡散臭いともおもひます。


  じっさい、歴史をふりかへると、人權觀念がつよかった時代・地域においては、逆に人權が保障されてきませんでした。フランス革命がよい例です。自由・平等・博愛(Liberté, Égalité, Fraternité)と、美徳がつけ加へられるにしたがって、なぜか虐殺もエスカレートしてゆきました。ほかにもソ聯の例など、枚擧に暇がありません。


  神への信仰がますますあつくなり、その結果として人權觀念が生まれてきたのならともかく、事實はその逆でした。世俗化・脱宗教化した地域で、とくに人權がさけばれてきたのです。しかも、さけぶわりには人權蹂躙がはなはだしくおこなはれた。






  人權とは、一種のフィクションであります。神によって先天的にあたへられたものとみなすのは、立派なフィクションのひとつです。神がそんな權利を人間にあたへたところを見た人は、誰もをりません。想像の産物なのです。


  以前から「想像の共同體」とか「創られた傳統」とか言って、國家・國民などの概念がフィクションであることを暴きたがる人が大勢をりますね。そっち方面のフィクション性は大騷ぎするのに、人權觀念のフィクション性には頬かむりです。


  もちろん、フィクションであることが即、惡いことになるわけではありません。それじたいは善惡を離れた中立的なものです。問題は、そのフィクションを本氣で信じられるかどうかであります。信じられるならば、それを大いに使へばよろしいのです。


  人權觀念を、本氣で信じられますか? それはつまり、全知全能の神(Mighty God)からあたへられたのが人權である、といふ物語を信じられるかどうかにかかってをります。


  ただ、日本人は一神教的な世界觀を嫌ひます。排他的で嚴格な宗教ではなく、八百萬の神々をゆるく信じてをります。わが國でキリスト教徒の割合が増えないことが、なによりの證據です。キリスト教は、日本人になじまない宗教なのです。






  わたくしは信じるフリをしたくないから正直に申します。キリスト教は信じられません。逆立しても無理です。それゆゑ、神からあたへられたとされる人權も信じません。そもそも全知全能の神からして、わたくしにとっては「?」であります。むしろ『古事記』に登場するやうな、《神のくせに占ひをしてしまふ神》の方に親近感を感じます。


  みなさんはいかがですか? キリスト者ならば人權といふフィクションも信じやすいでせう。西洋人が人權觀念を信じる(フリをする?)のは、かれらがキリスト教徒だからです。


  日本人のみなさんは、キリスト教徒である人をのぞき、人權觀念を本氣で信じることはできますまい(わたくしと同じく)。それでしたら惡いことは言ひません。人權觀念なんぞを信じるのはおやめなさい。信じてもゐないことをあたかも信じてゐるかのごとく僞るのは、精神衞生上、まことによろしくありません。素直になってください。
(つづく)




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