ハディース(イブン・マージャおよびサヒーフ・ムスリムに収録)は、イスラム法における労働契約(イジャーラ, الإجارة)の基本原則の一つであり、労働の対価として適正な報酬を迅速に支払う義務を明示しています。
1. ハディースの出典と意味
(1) イブン・マージャのスナン(2443)
「労働者の汗が乾かないうちに、その賃金を支払え。」
(أَعْطُوا الأَجِيرَ أَجْرَهُ قَبْلَ أَنْ يَجِفَّ عَرَقُهُ)
(イブン・マージャ、スナン 2443)
このハディースは、労働の対価が遅滞なく支払われるべきであることを強調しています。雇用者は労働者の権利を尊重し、報酬の遅延が不正とみなされる可能性があることを示唆しています。
(2) サヒーフ・ムスリムの関連ハディース
サヒーフ・ムスリムには、雇用者が労働者に対し不正を行ってはならないことを強調するハディースがあります。
「アッラーは、三種類の人々の訴えを聞かれない。そのうちの一つは、労働者を雇って仕事をさせ、約束した報酬を支払わなかった者である。」
(サヒーフ・ムスリム、キターブ・アル=ムサーカート 1040)
これは、労働者の権利が侵害された場合、雇用者は神の裁きを受けるという警告であり、雇用者の誠実な対応の重要性を示しています。
2. イスラム法(フィクフ)における労働契約(イジャーラ)と賃金支払いの義務
(1) イジャーラ契約とは?
**イジャーラ(الإجارة)**は、イスラム法における雇用契約(賃貸契約)を指し、財産の貸与(物のイジャーラ)と人的労働(労働のイジャーラ)に分かれます。
労働契約におけるイジャーラでは、
- **労働者(アジール, أجير)**は、特定の労働を提供する義務を負う。
- **雇用者(ムスタアジル, مستأجر)**は、労働の対価として約束された賃金を支払う義務を負う。
(2) フィクフ学派の見解
主要なイスラム法学派は、労働の対価として賃金を速やかに支払うことを義務としています。
- ハナフィー派: 労働契約は双方の合意によって成立し、賃金は契約で定められた方法で支払われるべきである。
- マーリキー派: 労働者の権利は神聖であり、賃金の遅延は不正(ズルム)とみなされる。
- シャーフィイー派: 労働契約は明確な条件の下で成立し、賃金は契約の履行後、速やかに支払われなければならない。
- ハンバリー派: 労働が完了したら、労働者は直ちに賃金を受け取る権利を持つ。
(3) メジェッレ(オスマン帝国民法典)における規定
メジェッレ(1869-1876)は、イスラム法に基づく最初の体系的な民法典であり、労働契約についても規定しています。
- 第404条:「雇用者は、契約に基づいて労働者に約束された報酬を支払う義務を負う。」
- 第410条:「労働者が仕事を完成した場合、彼の賃金は直ちに支払われるべきである。」
このように、労働者の賃金は速やかに支払われるべきであり、遅延は不正とみなされます。
3. イスラム法と現代労働法への影響
(1) イスラム法の原則と現代労働法の比較
現代の労働法でも、賃金支払いの遅延は禁止されており、多くの国の労働法では、
- 賃金支払いの期限の明確化
- 不当な遅延に対する罰則
- 労働者の権利保護
といった規定が設けられています。これは、イスラム法のイジャーラの概念と共通する部分が多いです。
(2) イスラム金融(イスラミック・ファイナンス)との関連
イスラム経済学においても、公正な労働報酬は重要視されており、**「利益とリスクの分配」**の概念に基づき、労働の成果に応じた正当な対価の支払いが求められます。
4. まとめ
- **ハディース(イブン・マージャ、サヒーフ・ムスリム)**には、労働者の賃金が迅速に支払われるべきであることが強調されている。
- **イスラム法(イジャーラ契約)**では、労働の対価を適正に支払うことが義務とされ、賃金の遅延は不正とみなされる。
- **フィクフ学派(ハナフィー、マーリキー、シャーフィイー、ハンバリー)**は、賃金の支払い義務を明確に規定している。
- **メジェッレ(オスマン帝国民法典)**では、労働の対価は速やかに支払うべきであると定められている。
- 現代労働法との共通点として、賃金の支払い期限や労働者の権利保護がある。
このように、イスラム法において労働者の賃金支払いは厳格な義務であり、社会的公正(アダール, عدل)の一環として位置づけられています。