【改めて、岩口の自己紹介20160913】

父が公務員だったため、
東京飯田橋にある旧職域病院で生まれる。

誕生日は「釈迦の誕生日」の翌日です〜
(最近お笑い芸人の小藪さんが「灌仏会」推しですね!)
そんな小籔は、お笑い芸人らを集めて「お釈迦さま」の誕生日パーティーを開催。同日は「灌仏会(かんぶつえ)」といって釈迦の誕生日を祝う仏教の行事で、花祭とも呼ばれる。小籔は「クリスマスも全然いい。でも、クリスマスに『ワー!』、ハロウィンに『ワー!』、お釈迦さんの誕生日に『シーン』。なにそれ?」という違和感があり、企画したという。
http://news.mynavi.jp/news/2016/06/05/079/

幼少期は引越しを繰り返しました。
最初に住んだのは、恵比寿の公務員住宅。
次に済んだのは、武蔵野市・武蔵境あった公務員住宅(数年前に見に行ったら、すでに無くなっていました)
その後
幼稚園の年中まで千葉県松戸市五香に住む。
(陸上自衛隊駐屯地じゃないよ笑)
松戸市の幼稚園時代は、
ヤマハにピアノを習いに行き、園内ではブラスバンドで大太鼓を叩いていた記憶。
10数年ぶりにかつて住んでいた団地に行ってみたら、
かつての賑やかさはなく、空き部屋が目立ち 寂しい雰囲気になっていた。

幼稚園年長は、大阪府吹田市で過ごす。
幼稚園では折り紙ばかり折っていた。週に一回木曜かな?小学生が集まる「折り紙クラブ」に参加。当時の折り紙技術は、どこに行ってしまったのだろう?

そのまま同じ地区の小学校へ。
夏には東京の小学校へ転校。
当時のクラスメートが「転校しても、忘れないでね」的なメッセージをくれたけど、
3ヶ月くらいしか一緒にいない私なのに、、、困っただろうな。

小学校のときは、
いきものがかり、放送委員、イベント係りなどをやった。
好きな科目は理科、図工。嫌いな科目は体育、理由は足が遅かったから。
将来の夢は、科学者。
工作クラブの部長?だった。
小6の夏は、工作室が解放されていて
毎日余った木材を使っては、いろんなものを作ったなあ。

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中学校に入って
技術工作部に入部。電子工作をひたすらやるような部活動です。
ハンダごてを握っては、秋葉原で買ってきたキットを組み立てていた。
秋葉原が「アキバ」になる前は、よく電気街で部品を探していた。
(その後、高校時代は学校が近かったので神保町の古本屋街によく行った。
千代田区のあのエリアには、何かと縁があるんだろうな)

その技術工作部をやりながら、
演劇部設立の前身になった団体に所属。顧問は担任の国語教師と美術教師。
これが楽しかった。
基本は裏方だったけど、西遊記を影絵でやる舞台があり
猪八戒役を声で出演した。

そうそう学年一の天才である友人が
生徒会に立候補することになり、
選挙の応援演説にした。結局、当選しなかったけどね。
全校生徒の前に演説というより、演劇チックなパフォーマンスをした。
「おぉ!なんてこの候補者は素晴らしいんだ!!」的な。
人前に立つのは、小学校3年生のイベント系の委員会でゲームのお手本を披露して以来。
無茶苦茶緊張して、ほとんど何を言ったか覚えてないけど
あれが人前で話す「最初の一歩だった」と記憶してる。

そしてファミコンにハマりすぎて(女神転生2など)、
視力が下がった中2。(自分の中では第一次TVゲームブーム
小学校時代は、兄弟と取り合っていたのでハマれなかった)

中3では突然バレーボール部に入部。
体を動かすことをしていなかったのもあり、バレーボールに興味を持っていたのもあり。
結局入試追い込みの秋になったら引退だったので、中途半端なバレー部員だった。

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高校入試を考える時期
都立高校と私立高校3つを受験。
都立高校は地域トップ校に進学したかったけど、
数学の成績が悪かったために、2番手の高校を受験&進学。
私立高校は、成城高校と京華高校、順天高校を受験。
成城高校と京華高校は男子校。順天高校は当時も共学。
成城は数学ができずに不合格。京華高校と順天高校は合格していたが、第一志望の都立高を選択したので進学しなかった。
上記私立高校に進学していたら、自分の人生はどうなっていたのかな?と空想することがある。

高校進学前、
卒業サッカーで(卒業前のイベント)骨折しました。
(つづく20160914)